アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

イメージと方法

美大時代の私は「他人のマネをしない」「これまでに無い新しい表現」というのを目指したものの、才能が無くて挫折します。しかし今振り返ると「これまでに無い新しい表現」を私は「イメージ」で思い浮かべようとして断念したのでした。イメージによって新しいものを生み出すのが「才能」だと私は信じていたのです。

美術に限らず「新しいもの」を生み出す力は「イメージ」なのでしょうか?と言うより「新しいもの」とは「イメージ」なのでしょうか?美術が諸学問と同じく「哲学を幹とするその枝葉」であるとするならば、哲学はイメージではなく、新しい哲学もイメージでは有り得ません。

現象学フッサールが述べるとおり「これまでとは全く異なる新しい哲学の方法」であるならば、哲学とは「方法」であり、新しい哲学は「新しい方法」です。と言うことであるならば「新しい美術」も「新しい方法」なのであって、それは「イメージ」では無いはずなのです。

「これまでに無い美術」とは「これまでに無い方法」であり「新しい美術」とは「新しい方法」です。ですから「これまでに無い新しい美術」を「イメージ」によって思い浮かべることは徒労に終わるのです。この徒労を学生時代の私は「才能が無い」と勘違いしたのです。

正月に長野に帰省した際、私は小布施北斎館で葛飾北斎に見入ってましたが、確かに北斎はイメージではなく「方法」によって「新しい表現」を次々に生み出しているように思えたのです。北斎の浮世絵には作品ごとにさまざまなアイデアが詰め込まれ、そのアイデアとはことごとく「方法」であったのです。

私は「方法」という言葉を意識してませんでしたが、自分の才能に見切りを付けることで、結果として「新しい表現をイメージする」ことを止め、不十分ながら「方法」で製作する方向に転化できたのであり、その成果の一つがフォトモであり、それは方法であった為さらにバリエーション展開できたのです。