『ソクラテスの弁明』再読してますが、「無知の知」を徹底して実行するのは思った以上に難しい。「一を聞いて十を知る」のではなく、「一を聞いて十を知らない事を知る」のでなければいけません。
例えば書店に行って自分が読むことの出来る本を一冊買うと同時に、自分が読むことの出来ない膨大な量の本が存在することを知らなければなりません。また自分が読んだ本にしても、自分が読み取った内容以外に、自分が読み取れなかった内容がその本に含まれることを知らなければなりません。
実際に私は『ソクラテスの弁明』をかつて読んだのにもかかわらず、再読してみてそこに記された「無知の知」の意味について、理解が全く不十分だったことをあらためて知ったのでした。「無知の知」を阻むものは何でしょうか?一つには自尊心、そして虚栄心です。
自尊心と虚栄心の源は何でしょうか?動物は自らの姿を「強い者」として相手にアピールする事で、生存的に優位に立つことが出来ます。エリマキトカゲがエリを開いたり、ネコが毛を逆立てたり、カマキリがカマを持ち上げたりするのと同じで、人は知っていない事について「知っている」と思いなすのです。
自尊心と虚栄心はセットになっています。自分は実際以上に強い存在だと思い込まなければ、自分自身が不安であり、それが自尊心です。そして他人に対しても自分は実際以上に強い存在だとアピールし、生存的に優位に立とうとする事が虚栄心です。これは多くの動物種にも共通する自然的態度と言えます。
ソクラテスの「無知の知」の哲学は、自然環境と隔絶された都市文明の内部で生じました。都市文明の内部では、自然環境におけるような「生存競争」をする必要は本来的にはないのです。ところが多くの人は都市文明の内部で、自然環境にいるのと同様の生存競争を繰り広げ、それは現代も同様なのです。
ソクラテスはなぜ死刑になったのか?それはソクラテスとその他のアテナイ市民とでは、ゲームの内容が違っていたのです。そもそも都市文明の内部では、その意味で市民の生存は保障されているのです。ですから生存競争とは異なるゲームである「哲学」がそこに生じたのです。
ところが多くのアテナイ市民は、都市文明としての生存が保障された環境にありながら、「生存競争」というゲームをなおも繰り広げていたのです。そのような「文明の中の自然人」にとってソクラテスの存在は、自分たちのゲームのルールを引っかき回す敵として認識されるのです。
山本七平は文明を「食物を配分するシステム」と定義しました。「食物を配分するシステム」が完備された文明の内部で、人は自然環境の過酷な生存競争から開放されたのです。ところが多くの人は、文明の内部において生存競争を繰り広げており、それがさまざまな形に変形しながら現代まで続いているのです。
自然環境における生存競争の、その生存戦略の基本の一つが「擬態」です。実に多くの動物が地味で目立たない色彩をしており、つまりは擬態をしているのです。自然環境において擬態をするのは当たり前ですが、都市文明において擬態の必要はもはやありません。
にもかかわらず、都市に住む多くの人が何らかの擬態をしているのです。その擬態の一つに自分が「知らない」事を「知っている」と思い込む自尊心と虚栄心があるのです。それをソクラテスが「哲学的態度」によって暴いて回ったため、「自然的態度」の人々から敵とみなされ憎まれる事になったのです。
重要な事は「無知の知」は難しく、それを阻むのは自尊心と虚栄心であり、それらは動物に共通の生存競争の産物であり、擬態の一種であるということです。自分の知らない事を知っていると思い込み、周囲にもそう信じさせる事は、動物的な「擬態」の一種であったのです
敵を騙すにはまず見方を騙す必要があり、巧妙な詐欺師は相手よりも先にまず自分自身を騙します。だからこそ哲学においては自分を騙す自分こそが敵であり、それが「無知の知」の意味でもあるのです。
都市文明において、生存の保障が完全にされているわけではなく、ソクラテスも命懸けで戦争に参加しています。しかし真の意味での自然環境は地獄のように熾烈を極めています。例えば私は雑木林でガの幼虫を何種類も捕まえて、どういう成虫になるか確認しようとしたことがあります。
その結果、大半のイモムシはガになる以前に寄生バチや寄生バエによって食い破られてしまったのです。自然環境とはそれほど過酷なもので、目に見える大きな敵以外に、目に見えない小さな敵が絶えず自分の生命を狙っているのです。そのような危険から脱するために人は都市文明を形成したのです。
『擬態―自然も嘘をつく』http://www.amazon.co.jp/dp/458254620X は名著ですが、生存戦略の基本は擬態=嘘にあり、孫子の兵法に「兵は詭道なり」と記されていたのもその事です。
「生きる」とは嘘の上に成立するものです。生存とは嘘をつくことと同意です。なぜなら相手を殺さなければ自分は生存できず、相手は自分を殺すことで生きようとしているからです。ですからどのような平和主義者も生きる以上は「綺麗事」という嘘をつかざるを得ず、それが「原罪」だとも言えるのです。
真実を追究したソクラテスは、その結果として死刑を宣告され、そして嘘をつきながら生存することよりも、より良く死ぬことを自ら望んだのです。
まさに『ソクラテスの弁明』でソクラテスは次のように述べているのです。
誰もが死が、人間にとって、もしかしてまさに、すべての善きもののうち最大なものであるのではないかということを知らないで、悪いもののうち最大なものであることをよく知っているかのように恐れる。