アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

無知と貧乏

人が、自分がいかに無知で、いかに無能であるかを「正確」に認識するならば、そこに〈神〉が立ち現れるのではないでしょうか?

人が、自分が無知で無力であることを「個々の具体的な理由の寄せ集め」ではなく、フッサールの言うようにこれを「本質的に直感」するならば、それに対置されるところの永遠の汝である〈神〉が立ち現れるのではないでしょうか?

〈神〉はお金を持っておらず、だから多くの人は自分が貧乏であることを知っています。つまり誰もが、金持ちでさえも「金が欲しい」と思っています。これとは逆に〈神〉は永遠の命を持っており、だから多くの人は「自分はいずれ死ぬ」と知識で知りながら、実感として自分は死なないと思っているのです。

〈神〉はすべてを知っているが故に、多くの人は自分は多くのことを「知っている」と思いなしています。人は〈神〉だけが所有しているものを「自分が所有している」と思いなし、その結果〈神〉の存在を見失います。

人は自らの無知無能を徹底的に認識することによって、全く別次元の認識力を手に入れ「超人」になることができます。いやそうではなく、人の能力は自らの無知無能を認識しないことによってリミッターが掛けられるのです。リミッターを解除するには、自らの無知無能を本質直感する必要があります。

人は、自分が生態学的絶対優位に立つことを夢想します。つまり弱肉強食の絶対的な頂点で、そのように想定される生態学的地位=ニッチがすなわち〈神〉なのです。そして、人は誰でも〈神〉のような生態学的優位にはいないのです。