アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

犬と飼い主

人はいろいろなものに縛られています。つまり人は解放されなければなりません。自分を縛っているのは「自分」です。ですから自分を解放するには「自分」の解体が必要です。「解体が必要」であることは即ち「縛られていること」を意味します。

自分が悪いのは自分のせいではありません。自分が劣っているのも自分のせいではありません。自分が努力できないのも自分のせいではないのです。あらゆる事柄において、自分の人生における一切について、それらは自分のせいではなく、自分は一切悪くないのです。

蚊が人の血を吸ったからといって、その蚊が悪いと言えるのでしょうか?蚊が蚊であるのはその蚊のせいでしょうか?同じ意味で、清原が清原であるのは清原のせいであり、清原が覚醒剤を打つのも清原のせいだと言えるでしょうか?

犬が犬であることはその犬のせいなのでしょうか?犬が人を噛めば殺処分されます。しかし犬が人を噛むのはその犬のせいではありません。犬そのものを責められないのは犬に「主体」が認められないからです。つまり自分がしたことであっても、自分の「主体」のあずかり知らぬところでなされたことについて「自分のせいだ」と思う必要はないのです。

人はさまざまな「自分のせいだ」という思いに縛られており、これを解体する必要があるのです。

犬が人を噛むのは犬のせいではないとしても、人を噛んだ犬は殺処分されます。同じように、人が人を殺せば罪に問われます。たとえ自分が他人を殺したのが(究極的には)自分のせいではないとしても、法治国家で殺人を犯せば罪に問われます。つまりこれは犬とその飼い主の関係なのです。

犬が人を噛めば犬に責任はなくともその飼い主に責任が生じます。人を噛んだその犬がそこに存在するという事柄の「主体」は、犬をそこで飼おうと意志する飼い主にあるからです。そのような意味で、人は誰でも心の中に「犬」を飼っていて、その犬が勝手にしでかしたことの責任はその飼い主にあるのです。

「責任を取る」ということは、本質的に「自分のせいではない事柄について責任を取る」ことではないでしょうか?何が本当に自分の責任なのか?は究極的に考えると難しいのです。しかし責任を取るその事自体は簡単で、自分の責任が不明な事柄について責任を取ることが、責任を取ることなのです。

「責任」と「責任を取ること」は分離して考える必要があります。実際的に、自分に責任が無くとも、自分が責任を取らなければならない場合がほとんどなのです。

「責任」と「責任を取ること」の分離によって、あらゆる事柄について「自分のせいだ」と思いなして悩むことがなくなり、その結果として責任を取るべき時に逃げたり、ごまかしたり、つっぱねたり、と言う事も無くなるのです。

例えば「自分が努力をしてこなかったこと」は全く自分のせいではないのです。その事で「自分が悪いのだ」と責める必要は全くないのです。ただ自分が努力しなかったこととその結果を「現象」として冷静に観察し、引き受けることが重要で、そこに真の意味での「責任」を取るべき主体が立ち上がるのです。

犬は自分の罪を認識することはありませんが、犬自身の「自分に罪がない」というその認識は正しいと言えます。しかし人は、自分の罪を様々な事柄のうちに認識し、その認識はことごとく間違っているのです。

逆に考えれば、自分が善いことをしてもそれは自分のせいではないのです。自分のおかげで自分が善いのではないのです。同じく、たとえ自分がいかに優れていようとも、それは自分のせいではないのです。

自分が善いのは自分のせいではなくとも、世間の人は善い人を褒めたり感謝したりしますから、それを自分は突っぱねることなく引き受ける必要があります。また自分が優れているのが自分のせいでなくとも、世間の人は優れた人を賞賛したり尊敬したりするのです。

世間の人は、褒め称えたり感謝できる対象を求めます。また、賞賛したり尊敬できる対象を求めます。そのような人々の求めに、善い人や優れた人は、それがたとえ自分のせいではなくとも、応える必要があるのです。

そして反対に、人は犯した罪の責任を担う人を求めます。人を噛んだ犬に対し、その犯した罪の責任を負う飼い主を求めます。たとえ自分の犯した罪が究極的に自分のせいではなくとも、世間の人の求めに応じて自分の犯した罪の責任を自分が負う必要があるのです。

社会が、罪を犯したとされる人に対し、罪を負い責任を取ることを要求するのです。そして、社会が善いとされる人や、優れたとされる人に対し、感謝や尊敬の対象になることを要求するのです。

つまり非社会的な事柄について、自分は一切の責任を感じる必要は無く、感謝されたり尊敬に値する人間だと思う必要も無いのです。そして人は誰でも社会的な存在であるのです。