アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

不可能と可能

自分が知っているものは、ことごとく自分が知っていると思い込んでいるものであり、実際それについて自分は何も知ってはいないのです。例えば自分が座っている「椅子」について、私は何も知らないのです。

あらゆる「椅子」は、本来椅子ではないにもかかわらず、みんなが「椅子だ」「椅子だ」と言っているので自分も「椅子だ」と思っているに過ぎません。誰もそれを「椅子」だと思わなければ、それぞれのその物体は本来「椅子」ではないのです。

私は大人になった昆虫観察を始めたばかりの頃、昆虫図鑑に昆虫の名前が載っていることに仰天しました。本来、虫には何の名前も付いていないはずなのですが、人間が虫に勝手に名前を付けているのです。

椅子の場合はどうでしょう?椅子は虫と違って誰か人が作ったもので、それを椅子と名付けて読んでいるのです。多くの場合、椅子は自分以外の誰か他人が作ったものです。自分で自分の椅子を作りそれに座っている人はごくまれです。

虫は人が作ったものではありません。椅子は人が作ったものですが、多くの場合自分が作ったものではありません。椅子職人は椅子を作りますが、しかし自分が作ったものではない服を着たり、自分が作ったのではない家に住んだりしています。

人間はあらゆるものを作り出す能力を持っていますが、同時に大多数の人が自分が作ったのではない、他人が作ったものに囲まれて生活しています。

実に不思議なことですが、人間にはさまざまなものを作り出す能力が備わっていて、現代のテクノロジーはますます高度に発達しつつあると言われているのに、各個人を見てみるならば大半の人は実に何も作り出してはおらず、もっぱら他人が作ったものを利用するだけなのです。

私はアーティストとして、何を「作った」と言えるのでしょうか?私が存在せず、私の作ったものが存在しなかったとしても、世の中はなんの影響もなく動いてゆきます。その意味で私は何かを「作った」とは言えず、ただ他人が作ったものを利用するだけなのです。

人間の各自は何も作らず、ただ他人の作ったものを利用するだけであるにもかかわらず、人間全体を見れば次々と新しいものを作り出して、世の中を刷新し続けているのです。

人が何かを作ることは本質的には共同作業だと言うことができます。そしてその場合の共同作業とは、その場に居合わせた同時代の人間同士だけで行われるのではないのです。ものづくりの本質は、過去の人間をどれだけ召還して共同作業できるかに掛かっているのです。

自分はあらゆるものを「知っている」と思い込みながら実際には何も知らず、自分はさまざまなものを「作った」と思い込みながら実際は何も作っていないのです。

自分が「知っている」ことから「知る」と言うことは生じ得ないし、自分が「作れる」ことから「作る」ことは生じ得ません。自分が「知り得ない」と言うことから「知る」ことが生じ、「作り得ない」と言うことから「作る」ことが生じます。

そういえば私の作品フォトモは、自分の「作れない」という思い、絶望から生じたもので、つまりフォトモの方法論は「作らない」ことを利用して「作る」のであり、一見「作っている」ようでいて、実は私は何も「作っていない」のです。

実に、何事においても不可能から可能が生じるのです。可能から可能は生じ得ないのです。重要なのは、何事も可能ならしめようとするのではなく、不可能を自分のものとすることです。素朴で自然的な態度の人は、自分の不可能性を認識することがなく、それ故に何も可能ならしめないのです。

有り体に言えば「絵が描ける」と思っている人は絵が描けないのです。正確に言えば、若い才能〈時の花〉によって絵が描けたとしても、その「描ける」という思いによってやがて絵が描けなくなるのです。

私はもともと文章が書けない人でしたが、だからこそブログやTwitterで練習して少しは掛けるようになったのです。私には不可能から可能が生じることを一部では実践できたにもかかわらず、その方法論を完全には自覚しておらず、不十分であったのです。

不可能から可能が生じるとは、つまりは「無知の知」です。「無知の知」は単純なようでいて実に容易ではなく、これを徹底して実践することはまさに人間業では「不可能」なのです。

1を知って10の知らないことを知るなら、1を作って10の作れないことを知るのです。

自分が「知らない」と言うことに対し、素直で透明な気持ちになることが大切です。つまり自然的態度において人は自分が「知らない」と言うことに対して意向を示し、心を濁らせ「知っている」と強弁するのです。そうしなければ不安であり、人は自然的態度において臆病なのです。