アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

性善説と性悪説

性悪説】人間の本性は悪であり、たゆみない努力・修養によって善の状態に達することができるとする説。荀子が唱えた。

性善説】人間にはもともと善の端緒がそなわっており、それを発展させれば徳性にまで達することができるとする説。孟子が唱えた。

辞書的意味だと以上のようになります。

生まれたばかりの赤ん坊は動物と同じく「野蛮」でしかなく、教育によって徐々に精神が文明化し「人間」へと成長します。その意味で荀子がとなえた「性悪説」が正しいのです。すると人が生得的に備えていない「善」はどこから生じるのか?

「善」は本質的に人間関係において生じるものであり、人間関係にはもともと善の端緒が備わっているのであり、その意味で孟子のとなえた「性悪説」は正しいのです。

「悪」とは本質的に自己中心的で利己的な精神そのものであり、「善」とは人間関係を志向する精神そのものだと言えます。

人間は単体としては利己的な「性悪説」が正しく、人間関係としての人間は「性悪説」が正しいのです。単体としての人間の本質が「善」ということはあり得ず、人間関係の本質が「悪」だということも有り得ないのです。

人間が己の命を生きながらえるために利己的に振る舞うことが「悪」だと言い切れるのか?しかし、人間が主観的に利己的に悪を成していたとしても、その人の各細胞は「人体の全体」のため利他的に奉仕しているのです。

「個」としてではなく「関係」を志向する多細胞生物の各細胞の在り方の、その「外部化」が人間関係としての人間各自の在り方であり、「善」だと言えるのではないか?

一方で暴力団やマフィアも人間関係を大切にします。しかしより大きな人間関係である社会に対して、小集団として利己的に振る舞うことを旨とする暴力団やマフィアは、そのために間違いなく「悪」だと言えるのです。

「善」を成すには、人間関係の複雑な要素を広く考慮する必要がありますから、非常に難易度が高いのです。

善をなすのが難しいのは、より大きな人間関係を考慮した、より大きな善をなすのが難しいのです。つまりごく小さな人間関係を考慮した、小さな善を成すのは難易度が低く、多くの庶民はこれを実践しているのです。

逆に社会の支配者層に対しては、より大きな人間関係に配慮した、難易度の高いより大きな善を為すことが本来的に要求されているのです。これをとなえたのが古代中国の諸子百家であり、古代ギリシアソクラテスプラトンであるのです。

人間関係とは他人から受ける「恩」であり、恩を忘れることが即ち「悪」なのです。そして人は他人から受けた恩をすぐ忘れるのであり、他人からどれだけの恩を受けたのかを思い出すことが、プラトンが伝える「哲学」の意味なのです。

人間関係とは関係の連鎖であり、人は直接的だけではなく、間接的にもあらゆる他人から膨大な量の「恩」を受けており、それが人間が社会なきな存在であると同時に、歴史的存在であると言われる所以なのです。それだけに自分が受けた恩の大半は忘れ去られ、学習によってこれを思い出す必要があるのです。

自分の利益を捨てて他人の利益に奉仕するならばそれが善行への一歩になります。しかしそこから先は難しいのです。例えば自分の利益を捨てて無一文になってしまえば、自分はもう他人の利益のため奉仕することはできないのです。ですのでキリストの言葉は金を増やすことそれ自体を否定しないのです。