アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

信仰とイデオロギー

観念の体系であるイデオロギーには、特有の創造力が備わっています。イデオロギーに備わる創造力は特有のもので、その意味での限界があります。

「鰯の頭も信心から」がイデオロギーに特有の創造力です。イデオロギーの力によって「鰯の頭」が「神」に変わるのです。しかし信じる者にとってそれが「神」であったとしても、信じない者にとってそれは「鰯の頭」に過ぎず、それがイデオロギーによる創造力の限界点なのです。

認識とはなんでしょう。一つには自分が猫だと思ったものが猫なのです。自分が椅子だと思ったものが椅子なのです。すると自分が神だと思ったものが神なのです。思うこと=観念の体系であるイデオロギーにより「鰯の頭も信心から」という形の神が生じるのです。

自分にとって神であるものが、他人にとって鰯の頭である場合の「客観性」とは何でしょうか?いやむしろ他人にとって鰯の頭でしかないものが、だからこそ自分にとって神であるという場合があるのです。その場合の客観性が問題なのです。

「鰯の頭も信心から」とは、実は自分がそれが客観的に鰯の頭であることを十分に承知していながら、なおかつ、だからこそ、それを神であると信じるのです。つまりこの場合のイデオロギーとはアンチテーゼなのです。つまりイデオロギーを通して、アンチテーゼそのものに大きな意味を見出しているのです。

オルテガはその著書『大衆の反逆』で、あらゆる「反◯◯」は「◯◯」を前提とし自律せず普遍的ではありえない、としています。つまりあらゆるイデオロギーは他のイデオロギーに対するアンチテーゼなのであり、これによって見出された神は普遍ではなく、限定されているのです。

「鰯の頭も信心から」にもし普遍性があるとしたら、神は偏在するが故に鰯の頭を借りてもその姿を現わすのです。それならば何故、鰯の頭に姿を借りた神だけを、神と認めなければならないのでしょうか?むしろ鰯の頭という具体物に頼らずに、その向こうの神を認めるべきではないのでしょうか?

イデオロギーとは何でしょう?実はあらゆる生物が種に固有のイデオロギーを持っています。生物の持つイデオロギーは種に固有のものであり普遍ではありません。生物種には「普遍的な種」というものはなく「普遍的なイデオロギー」もあり得ません。人間のイデオロギーもこれと同じです。

あらゆるイデオロギーは、固有のイデオロギーであり、普遍ではないのです。にもかかわらずイデオロギーを主張する人は、自らのイデオロギーを普遍だと錯誤してます。そのような人はつまり自らのイデオロギーイデオロギーとして認識できないでいるのです。

自分が普遍だと信じることは普遍性の無いイデオロギーに過ぎないのか?これを確認するには「普遍とは何か?」についてよく調べて学ぶ必要があります。そもそもイデオロギーを普遍と取り違えている人は、どんなことにおいても調べたり学んだりする必要がないと考えているのです。

あらゆる生物が種に固有のイデオロギーに囚われ、人間だけがそこから逃れる可能性を持っています。つまり動物種としての人間には種に固有のイデオロギーは存在せず、言語機能により各自に固有のイデオロギーを構築するのです。そして哲学とはそのような「固有性」を越えようとする営みであるのです

哲学の意味の一つは固有性の超越です。あらゆる生物は種に備わる固有性に縛られ、同じように人は各自の固有性に縛られ、そのような固有性を超越した「普遍」へと哲学は向かうのです。

イデオロギーとはつまりは「野生の思考」です。動物が種に固有のイデオロギーに縛られるように、素朴な人は各自に固有のイデオロギーに縛られるのです。

客観性と普遍性は異なります。客観性とは共同主観性であって、そのような共同主観的な偏りによって、ソクラテスもキリストも死刑判決を受けたのです。

客観性は、その時代と地域に固有のあり方によって偏っています。そして客観性の持つ偏りを見抜く自分の主観的イデオロギーに普遍性があるかのように錯覚されるのです。イデオロギーを主張する人の多くはこのような錯覚に囚われているのです。

いったい何が、イデオロギーの固有性を超えた普遍性なのでしょうか?それはイデオロギーに囚われた人々が決して目を向けようとしない様々な「状況証拠」によって示されているのです。