アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

死者と意識

自分の目に映るものが何であるか?は解釈の問題であり意識の問題だと言えます。自分の目に見えるものが何であるか?は自分の意識が決定し、意識の作用によって目に見える世界に「そのもの」が創造されるのです。自分の目に見える世界の秩序は、外光の反射と言うよりも、自分の意識の秩序の反映なのです

しかし、自分の意識が世界を創り出していることに思い至り、そこで停止している人は、自分の意識が何から出来ているかについて考えが及んでいないのです。自分の意識が世界を作り出すと考えるのは独我論ですが、世界を作り出す意識は何から作り出されるかに思い当たることで、独我論を乗り越えることができます。

独我論イデオロギーであり、イデオロギーとは集合的独我論でもあり、イデオロギーを唱える人々は自分「たち」が世界を作り出したという感覚に囚われているのです。

自分の意識は何から作られるのか?聖書には次のようにあります。

御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。(ローマ信徒への手紙1:2〜3)

すなわち私の肉体は私の両親の系譜から生まれ、私の意識は死者から復活して作られたのです。意識が言葉だとすれば、言葉を語っていたのはかつて生きていた死者たちであり、その死者の言葉が私の口から語りだされ、私の意識を作り出すのです。

私たちが語る日本語はかつては死者が語っていた言葉です。赤ん坊が生まれると、やがて死者が使っていた日本語を語りだし、そのようにして死者が復活するのです。自分の意識とは言葉であり、言葉は死者の言葉なのです。

自分は死者の言葉を語ることで自分の意識を構成します。そしてかつて悪人だった者の言葉を語る者の意識は悪人となり、善人だった死者の言葉を語る者の意識は善人となり、愚者だった者の言葉を語る者の意識は愚者となり、賢者だった者の言葉を語る者の意識は賢者となるのです。

自分は一体誰の言葉を語りながら自分の意識を構成するのか?自分が悪人であれば自分は悪人の言葉語って意識を構成し、自分が愚者であれば自分は愚者の言葉を語って意識を構成し、もしそう思える人は人は文字通り悪霊に取り憑かれているのです。

自らの内の悪霊を追い出すには、善人の言葉を招き入れ、善人の言葉で語り意識を構成することに、努めれば良いのです。

自分は自分の頭で考えているつもりで他人の頭で考えているのであり、他人も他人の頭で考えているのです。自分は自分の感性で感じているつもりで他人の感性で感じているのであり、他人も他人の感性で感じているのです。そのように自分の中に死者が復活するのです。