アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

俗物と哲学

中島義道『哲学の教科書』、今は講談社学術文庫ですが、最初の単行本が1995年刊行で、哲学に興味を持ち始めたその頃に私も読んだはずです。これをあらためて再読してみました。 

Amazon.co.jp: 哲学の教科書 (講談社学術文庫) 電子書籍: 中島義道: 本

物事の認識は難しいですが、中島義道先生の本を再読して中島義道生の哲学を認識するのも難しい。しかし中島先生が「専門」とする哲学についてはさて置き「専門外」の芸術や宗教についての素朴さ、俗っぽさはどういう事なのでしょうか?

中島義道生の哲学は「子供の哲学」と言えるものです。中島義道先生は「子供が持つ素朴な懐疑」を哲学の根拠にしてるのです。ですから中島義道生の哲学は「素朴」で「自然」であると言えるのです。

中島義道先生は「哲学の教科書」のまえがきに

「まず、哲学とは純粋な意味で「学問」ではないのですから、そこに執筆者の個人的な世界への実感が書き込まれていなければならない。」

と書いています。これはフッサールの『厳密な学としての哲学』と対極的だと言えます。

フッサール現象学も「個人的な世界への実感」を出発点としており、それこそが「現象学」の意味でもあるのですが、フッサールの哲学が「厳密な学」なのに対し、中島義道先生によれば哲学は「純粋な意味で学問ではない」のです。

なぜそうなるのか?は、実は「学問」という言葉の意味がフッサール中島義道先生とでは違っているのです。フッサールは「学問」という言葉をまさに学問的意味で使ってますが、中島義道先生は同じ言葉を「非学問的意味」で使っているのです。

同じように中島義道先生は「哲学とは何でないか」の章で、「芸術」や「宗教」の言葉を「非学問的意味」として、つまり「一般の人がイメージする芸術」「一般の人がイメージする宗教」という意味で使っているのです。これが中島義道先生の「個人的な世界への実感」なのです。

中島義道先生は自身を「哲学病」だと書いてますが、中島義道先生まさに「哲学病を患った一般人」だと考えると辻褄が合います。だから「死」や「時間」について哲学的に語るいっぽう「芸術」や「宗教」や「学問」についてまったくの一般人のように語るのです。「芸術は哲学ではない」事を示すために梅原龍三郎小磯良平を引き合いに出し、「宗教は哲学ではない」事を示すために日本仏教を引き合いに出し、その説明は驚くほど素朴で俗的なのです。