アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

岡本太郎と才能論

これは、なんといっても一般に、「絵とはこういうものだ」という固定観念がしぶとく食い入って、純粋、素直な鑑賞をじゃましているからにちがいありません。#岡本太郎 今日の芸術 p22

 

近所付き合いや処世術などと違って、純粋に直感しなければならない芸術鑑賞には、まず、このような不要な垢をとりのぞいてかかることが先決問題です。#岡本太郎 今日の芸術 p23

 

聞いたり、教わったりするんじゃなく、自分自身が発見する。自分の問題としてです。そうすれば自然に、自分自身で、ジカに芸術にぶつかることができるのです。#岡本太郎 今日の芸術 p24

 

私の常に主張していることですが、芸術は絶対に教えられるものではないのです。芸術の学校なんて、オカシイ。芸術はすべての人間の生まれながらに持っている情熱であり、欲求であって.ただそれが幾重にも、厚く目かくしされているだけなのです。#岡本太郎 今日の芸術 p24

 

だれでも、その本性では芸術家であり、天才なのです。ただ、こびりついた垢におおわれて、本来のおのれ自身の姿を見失っているだけなのです。#岡本太郎 今日の芸術 p22

 

芸術は、むずかしいとか、わかるわからない、などもいうものではないのです。バカげた偏見で、そう思いこんでいるだけです。#岡本太郎 今日の芸術 p26

 

岡本太郎は「自分が芸術だと思ったものが芸術」であり、その根拠は「人間には生まれながらにして芸術の判別能力が備わっている」からだとしているのです。つまり岡本太郎は人間を生まれながらにして改良の余地のない既製品のように捉えている。だから余計なものを排除した純粋を主張するのです。

人間は生まれながらにして完全で完成された改良の余地のない既製品だからこそ、「芸術について学ぶ」などという余計なオプションを加えたり、余計な改造を施して、既製品本来の純粋性を損ねてはならないと主張するのです。

才能論を信じる人は、人間を生まれながらに完成した既製品のように捉えているのです。そして岡本太郎は芸術においては誰もが天才だと主張するのです。誰もが天才であれば、芸術に優劣はなく、誰も芸術を尊敬することも無くなります。

岡本太郎は、芸術とは学習や訓練の産物ではなく、その人の持って生まれ才能の産物だとしています。そして芸術の才能は、基本的人権と同様に、誰にも等しく備わっているとしているのです。政治家や八百屋のおばさんに等しく人権があるように、誰にでも芸術の才能は備わっているとしているのです。

人権は大人から子供まで誰にでも等しく備わっているものであり、だからこそ尊重しなければなりません。同様に、芸術の才能も大人から子供まで等しく備わっているものであり、だからこそ尊重すべきだと、岡本太郎は主張しているのです。

岡本太郎が主張するように「自分が芸術だと思ったものが芸術」なのでしょうか?人間は誰もが生まれながらにして「何が芸術で、何が芸術でないか」を判別する測定器の能力を備えているのでしょうか?

人間は確かに、「何が食べ物で、何が食べ物でないか」を判別する測定器の能力を、生まれながらにして備えています。すなわち、匂いを嗅いで臭いもの、口に入れて不味いもの、食べて体調が悪くなるものは「食べられないもの」で、そのような判別能力を人は生まれながらにして備えています。

人が生まれながら食べ物を判別する能力を備えているように、人は産まれながら芸術を判別する能力を備えているのでしょうか?

生まれながらに食べ物を判別する能力は、人間に限らずどんな動物にも備わっています。一体、そのような「能力」を誇ることができるでしょうか?「うんこは臭いから食べられない」と判別できる能力を、誰が尊敬するでしょうか?

岡本太郎は、人々が芸術を生まれながらの能力によって純粋に鑑賞できないのは、様々な知識や理屈が邪魔をしているからだと主張します。そして「偉い先生」が芸術に対し知識や理屈を述べることを強く否定します。

気をつけなければならないのは、この場合「知識」や「理屈」を述べているのは誰か?という事です。つまりこの場合、仏教で言えば在家信者が別の在家信者を批判してるのです。この意味での「専門家」とは出家者を意味するのではなく、在家信者の中での「専門家」を指しているのです。

岡本太郎『今日の芸術』だけでなく、あらゆる入門書は同じ構造をしています。内田樹『寝ながら学べる構造主義』も前書きで「専門的解説書はつまらないが、入門書は面白い」として専門家を批判しています。竹田青嗣現象学入門』では「現象学は誤解されている」としてそのような専門家を批判しています

あらゆる入門書が「専門家」を批判する事で「初心者」におもねっていますが、この場合の「専門家」とは仏教で言うところの「出家者」ではなく、「在家者」の中での専門家を指しているのです。

現代の入門書の原点は鎌倉仏教にあるのではないか?と思い法然について調べてみました。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/法然

 

他力と自力では他力の念仏を勧めている。自力は聖人にしか行えないもので千人に一人、万人に一人二人救われかどうかであるとし、対して他力の念仏は、名を称えた者を救うという阿弥陀仏四十八願を根拠として必ず阿弥陀仏が救いとってくださるとし、三心をもって念仏を行うべきとしている。このように法然の教えは、三心の信心にもあるとおり、民衆に凡夫であるということをまず認識させ、その上で浄土に往生するためには、専修念仏が一番の道であるとして勧め、さまざまな行のなかから念仏を行として選択すべきだとしている。(ウィキペディアより)

 

 

 法然の「南無阿弥陀」と唱えるだけで救われるという教えは、能力がなく厳しい修行に耐えられない凡夫である自分でも、確実に往生できる方法として編み出されたのでした。