時間的前後にも縛られず、あらゆるわざ及び彼の意識によって作られたあらゆる像とによって妨げられることなく、囚われなく自由に、神の賜物をこの今において新たに受け入れ、しかもそれをこの同じ光の内で、感謝に満ちた賛美を持って主イエス・キリストにおいて何の妨げもなく生み返そうと思う人は、主イエス・キリストのように自由にしてとらわれなくあらねばならないのである。そのようにすれば鳩は運び出されるであろう。#エックハルト 説教集p16
つまり、イエスの他に誰かが神殿のうちで、すなわち魂のうちで語ろうとするならば、言えるは我が家にいないかのように沈黙する。魂が見知らぬ客を迎え語り合っているのであるから、魂の内ではイエスは我が家にいないのと同じである。#エックハルト 説教集p17
イエスが語るのを魂が聞きたいと思うならば、魂は自ら沈黙しなければならない。まさにこのようにしてイエスは内へと入り来て語り始めるのである。#エックハルト 説教集p19
プロとアマチュアの違い。「あらゆる学問の基礎に哲学がある」とするフッサール現象学に従うならば、どの分野でも自明性を懐疑する人がプロであり、自明性を懐疑しない人がアマチュアだと言うことができます。なぜなら哲学者こそが「人間のプロ」であり、人間のあらゆる自明性を懐疑するからです。
絵画のプロは絵画の自明性を疑い、そのようにして独自の絵画を創造します。これに対しアマチュアは絵画の自明性を疑わず、すでにある「絵画」をなぞることで絵画を描くのです。
岡本太郎『今日の芸術』の主張は、前途の意味でプロフェッショナル的なのでしょうか?岡本太郎の「自分が芸術だと思ったものが芸術だ」という場合の「芸術」は、それ以上疑いもなく分解できない要素として「自明化」しており、つまりこれはアマチュアの理論であったのです。
アマチュアが、アマチュアの理論に基づいて絵を描いても、プロフェッショナルな絵画にはなり得ません。ですから岡本太郎の絵画も哲学的にプロフェッショナルな絵画ではなく、だから自分自身が否定したはずの、判で押したようにワンパターンな表現に陥るのです。
絵を描き続けていると、自ずとワンパターンな表現に陥ってきます。つまりワンパターンとは、フッサールが指摘した「自然的態度」であるのです。ですからワンパターンを脱するには、自然的態度を克服するための哲学的思考が必要となるのです。
芸術家と職人の違い。どちらもプロですが、プロの種類が違うのです。職人とはつまり「一般人の代表」としてのプロであり、だから一般の人にも理解できる「自明性」において仕事をするのです。プロの画家でも「売り絵画家」は同じ意味でのプロです。哲学的にプロフェッショナルな芸術家はその正反対です
岡本太郎の芸術論を大枠で言えば、「自分」と「芸術」という2つの自明性の上に成立しているのです。そして「自分の自明化」は哲学的思考からもっとも距離が遠いのです。そのような芸術論に、戦後日本は毒され続けてきているのです。ですから私はそこから脱することを考えているのです。