アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

食べ物エッセイ2 現代に増殖するオオサキという動物

 美味しい食べ物と、不味い食べ物は、何が違うのでしょうか?興味深い説があります。みなさんはオオサキという動物をご存じでしょうか?私は内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)でその名前を初めて知りました。オオサキというのは、キツネのように人を化かす動物として日本古来より信じられてきましたが、キツネが現代の人にも親しまれているのに対し、どういう訳かオオサキはその存在がすっかり忘れ去られ、私も名前すら知らなかったのです。

 内山節さんは東京生まれの哲学者ですが、群馬県上野村と東京を往復しながら暮らし、民俗学的なフィールドワークを行っている方です。『日本はなぜキツネにだまされなくなったか』は、日本では古来より「キツネにだまされた」という話が日常的にされていたのに、1965年を境にそうしたキツネ話がめっきり減ったという指摘をした本で、その中でオオサキという動物の話も出てくるのです。

 そう言えば、路上観察学会のメンバーの一人、『マンホールの蓋』などで有名な林丈二さんは、明治時代の新聞のコピーから「タヌキに化かされた」という記事だけを抜き出した『たぬき新聞』を発行されてましたが、明治時代の日本では、キツネやタヌキが人を化かすことが当たり前のように信じられていて、新聞記事の定番のネタにもなっていたのです。

 また、山崎貴監督の映画『三丁目の夕日』にも、東京の真ん中でタヌキに化かされるお医者さん(三浦友和)が出てきましたが、映画の舞台となった昭和33年の東京は、そうした雰囲気であったのです(因みにタヌキが棲んでいた神社の森が、その後の再開発でなくなってしまう描写が、映画の中にありました)。

 そして、先ほど挙げたオオサキという動物も、そのように1965年頃までの日本では当たり前のように人々に信じられていたのでした。さてオオサキとは何かと言えば、まず家の中に棲み着いているとされています。そして食事の時に食器を叩いたりおしゃべりをしたりマナーを悪くしていると、それを嗅ぎ付けて出てくるのです。

 しかし出てくるとは言っても、オオサキの姿は人の目には見えず、誰も存在に気付かないのです。そしてマナーの悪い人の食事を食べてしまうのです。ここで面白いのが、オオサキは食べ物の魂(ミ)だけを食べ、その殻(カラ)は残すのです。オオサキに食べられた食べ物とは、魂のない殻ですが、外観としては元の食べ物と変わらず、だから人は気付かずに、その魂の無い食べ物を食べてしまうのです。

 現代では、食べ物を食べるとは「栄養を取る」事だとされてますが、日本の伝統的な考えでは「魂をいただく」事だとされていたのです。ですから日本の伝統的な食事のマナーは、西洋のように楽しくおしゃべりしたりせず、厳粛な儀式のように黙って静かに、その魂をいただくのです。

 日本は伝統的には仏教国で、仏教では殺生を否定的に捉えますから、そして人間の食べ物は基本的には他の生き物を殺しているもので、その「魂」を厳粛にいただくという意識が、働いていると言えるかも知れません。ちなみに西洋では、例えば聖書には羊は神様が人が食べるために作った動物だと書かれていたりして、仏教とは動物に対する感覚がずいぶん違います。

 仏教について私は、明治以前の日本には伝わらなかったインドの初期仏典『ブッダの言葉』を読みましたが、そこでは動物を殺すことは厳しく戒められていて、道を歩くときも小さな虫や蛇を踏み殺さないよう、下を向いて歩きなさいと説かれています。私は街中で自然観察する人でもあるのですが、『ブッダの言葉』を読む以前からそういうことだけは知らぬ間に実践していたのです。

 ともかく、そうしたオオサキについての記述を読んで、ハタ!と私は気付いたのです。私はオオサキというのは、人間の目に見えないと言うだけで決して架空の動物ではなく、それだけでなく、現代においてはオオサキはかつてより増えているのではないか?と言うことに思い当たったのです。   

 書き忘れましたが、この本が出たのは2007年とありましたから、私がハタ!と気付いたもの恐らくその頃です。当時の私は、ひとり暮らしのアパートで仕事をしようとすると、どうしても眠くなったり、グダグダとサボったりしてしまうので、なるべく家には帰らずに、ファミレスにファミレスやファーストフード店に長居しながら、原稿を書いたり、本を読んでブログを書いたりしていたのです。

 それと同時に、ファミレスやファーストフードの味気なさも辟易としながら味わっていたのですが、その理由がこのオオサキにあることに気付いたのです。つまり現代において、ファミレスやファーストフードなどの外食チェーン店に、大量のオオサキが棲みついて、そういった場所がオオサキの巣窟になり、そのようにしてオオサキはかつてないほどその数を増やしているのです。そのようなオオサキが客の食事の「魂」を次々に食べてしまうので、それが味気なくなるのは当たり前なのでした。コンビニのお弁当もそうなのですが、その魂はことごとくオオサキに食われてしまっていて、われわれはその味気ない「殻」だけをそれと気付かずに食べているのです。

 そもそも内山節さんが指摘する1965年以前の日本では、食事は家で食べるのが基本で、オオサキは各家にしか住む場所がなかったのです。それが現在では食事の形態が変わり、外食産業が大発展を遂げて、そうするとオオサキも棲家を奪われるどころか、その生活環境が爆発的に拡張されてきたのです。

 さてそうなると、もともと外食チェーンは、欧米から日本にもたらされたものなのですが、オオサキの問題は日本に限るのか?という疑問が湧いてくるのです。しかし『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』という本には、それについての言及もあるのです。

 例えばかつての日本の農民がアメリカ旅行をすると「アメリカにもキツネがいる」という話をするのだそうです。つまりアメリカには人を化かすキツネが棲んでいないのではなく、アメリカ人がその存在を知らないだけなのです。だから狐の存在を熟知した日本の農民がアメリカに行くと「アメリカにもキツネがいる」というふうに気付くことができるのです。

 これを別の例で言うと「肩こり」という言葉は実は日本にしかなく、「肩こり」という言葉がない欧米では「肩こり」という概念そのものがなく、そのかわり「疲れると首が痛い」というような表現をするのだそうです。しかし日本人が欧米人に「肩こり」と言うことを教え、肩を揉んであげたりすると「これは気持ちが良い!」と喜ばれるのだそうです。

 つまり「肩こり」という概念がない欧米にも「肩こり」は存在し、「人を化かすキツネ」という概念がない欧米にも「人を化かすキツネ」が存在し「食べ物の魂を食べるオオサキ」という概念がない欧米にもオオサキは存在し、そしてオオサキの名前を人々が忘れ去ってしまった現代日本においてもオオサキは存在し、それどころか現代の外食産業という環境に実に上手く適応し、世界的にその数を増やしていると考えられるのです。そのようなわけで、食べ物の「美味しい」「不味い」と言う問題に、このオオサキという動物の存在が、深く関わっているというのが私の考察なのでした。