アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

プライベートと悪

*一般に、悪事を働くことの楽しみ、悪事に加担することの楽しみ、というものは確かに存在します。一つには、自分が悪事を働くことで誰かが不幸になり、それによって自分が優位に立てるという、快感による楽しみです。

あるいは悪を為すことは共同体への裏切りであり、そのように他者を裏切り、他者を騙すことで得られる快楽があるのです。自然環境における動物の世界は、まさに騙し合いの世界で、騙しによって得られる快楽はそのように原始的なものだと言えるのです。

悪事を働く人は、社会をジャングルのような自然環境とみなし、そこで動物のように他者を欺く、その事の快楽を得るのです。

*「あらゆることが面倒くさい」「外を見ずに自分の内にだけ篭っていたい」という思い自体が「自己実現」に対し背を向けた態度であり、即ち「悪」なのです。他者に対し、世界に対し閉じられていること自体が悪であり、開かれていることが善なのです。

善とは公共性であって、その反対の悪とはプライベートです。悪とは私利私欲のために働くのであって、私利私欲のために善を行うとは言わないのです。

善とは公共性に寄与することであり、その反対に、自分のプライベートに他人を引きずり込むことを悪と呼ばれるのです。

自分の欲望を高いレベルで満たそうとするのが善であり、低いレベルで満たそうとするのが悪です。レベルの違いによって善悪は分かれるのであり、その間はグラデーションで繋がっているのです。

悪を為す者の認識は自明性が強く、善を為す者の認識ほど自明性が弱いのです。なぜなら悪を為す者は自分の認識を絶対視し自明化することによって、他人を自分のプライベートに引きずり込む形で、悪を為すからです。

善を為す者は、自分の「こう思う」「こう感じる」という主観を自明化することなく、自分のは異なる他者の感性を考慮することによって、善を為すのです。