アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

万物と和解

生長の家」創始者、谷口雅春の主著『生命の真相』の冒頭だけ読む機会がありましたが「万物と和解せよ」と書いてあり、実に私は多くの人と敵対しており和解しなければなりません。私は誰と敵対しているのかといえば、それは世間であり、私は世間から浮いた存在であって、和解しなければならないのです。

私はなぜに世間と敵対していたのかと言えば、世間の人すなわち他者とは自分であって、自分は自分と敵対していたのです。ですから自分はあらゆる自分と和解しなければならないのです。

他者を他者として、自分とは異なる異物として認識するから敵対するのでありますが、他者とはまた「可能態としての自分」であり、同時に自分とは「可能態としての他者」であり、実に交換可能は和解すべき関係にあるのです。

ですからたとえ相手から敵だと見なされたとしても、その「自分を敵と見なしている」という事も含めて、相手を認めて和解する必要があるのです。

自分が和解すべき他者とは「過去の自分」です。自分が何か進歩するのだとすれば、その事について遅れている他者は「過去の自分」であり和解すべきなのです。

自分とは異なる他者とは「可能態としての自分」すなわち「そうであったかもしれない自分」であり、生まれ変わりにおける「前世の自分」に自分は対面しているのです。そうした「過去の自分」である他者と自分は和解しなければなりません。

古代インドを起源とする輪廻転生とは、それが科学的事実か否かが問題ではなく、「自分」と「他者」の関係を示した概念であると見ることが出来るのです。即ち自分の前世は「自分とは異なる他者」であり、そのようにして「目の前の他者」を捉えることによって和解への可能性が開けるのです。

他者と和解できないのはそれを「異質なもの」と見なすからです。しかしそれは枝葉を見て物事を判断しているに過ぎず、実際に自分と他者とは太い幹で繋がっており一体であるのです。

人は生物学的には同種のヒトであり、肉体的には同一の工業製品のようなものです。そして精神的には同じ日本人なら日本語を共有し、翻訳によって諸外国の文化を共有し、幹としての人類史を共有しているのです。

他者を自分とは「異質なもの」と捉える視点は、些細な差異を拡大して捉えているに過ぎません。そして些細な差異を拡大して捉えるからこそ、その「差異」と和解して「差異」を自分のものとして統合する必要があるのです。なぜならそもそも自分とは、異質な要素の統合であるからです。

西田幾多郎によると「自分」とは「統一の極点」です。「自分」とは「自分という隔壁」の内部に「自分の中身」の全てが入っているように閉じているのではなく、隔壁のない開いた系の中において、「今」という時間に於いて「自分」を統一する極点が「自分」であるのです。

フロイトの無意識も「自分の隔壁」の内部に無意識が沈殿しているのではなく、無意識は人と人との関係性という開いた系において存在し機能しているのです。無意識とは言語の働きであり、言語はまさにそのような開いた系に於いて存在し機能しているのです。

フロイトは『モーセ一神教』の中で、無意識とはそもそも集合無意識的であり、従って「集合無意識的」という用語を使う必要は無い、と述べています。つまり人は精神的には一体の「無意識」であり、無意識の内の幾つかの要素を統合した極点が「自分」であり、それとは異なる極点が「他者」なのです。

自分より優れた他者に対しては嫉妬して憎むのではなく、自分より先行した「未来の自分」として和解しなければなりません。たとえ自分がその人に追いつくのが不可能だとしても、その人は自分の未来のその先を行く未来の自分であり、和解しなければならない。そうしなければ自分に可能な未来も失われます

自分にとって嫌な人、嫌いな人と言うのは、多くの場合自分より人格面で劣っているのであり、有り体に言えば子供なのです。そのように子供である他者は、すなわち「子供だった過去の自分」であり、そのように見て温かい眼差しを向ける必要があるのです。

動物は可愛いですが、動物を可愛いと思う人は動物を人間の子供のように見なしているのです。人間は肉体的には人間として生まれてきますが、精神的には子供から大人に成長することで人間になるのであり、子供は動物的面を多分に残しているから可愛いのであり、動物もまた可愛いのです。