アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

認識と成功体験

人は誰でも成功体験に囚われています。例えば「猫」を「猫」として認識する成功体験に囚われて、「猫」を「猫」としてしか認識しなくなり、その間違いを正したり、別の見方をする可能性を排除してしまうのです。

日常的な認識、自然的態度の認識とは、成功体験の積み重ねによって成立しているに過ぎず、たまたまの成功がその都度の認識を、恣意的に規定してゆくのに過ぎないのです。ですので端的に言えば、そこには必然的に多くの間違いが含まれ、かつ成功体験によりそれが問題視されない構造になっているのです。

フッサールの言う現象学的判断中止とは、成功体験の排除であるのです。我々はことごとく、過去の成功体験に囚われながら物事を判断し、そして必然的に現在の判断を間違えるのです。過去とは全く隔絶した「現在」をそのものとして正しく認識する必要があります。

人間の認識は哲学的鍛錬によって進化し深化します。つまり人間の認識は、その意味で過去よりも現在の方がより多くのものを含んでいるのです。過去は常に単純で、現在は常に計り知れないほど複雑であるのです。その現在の複雑さを、過去の単純さを捨象して、ありのままに認識することが必要です。

成功体験は「独断的見方」を生じさせます。何の成功ももたらされないあいだ、人には何の独断も生じ得ないのです。

現象学的見方」とは、ですから何の成功ももたらさないよう、意図的にコントロールして、どこにも着地しない「宙ぶらりん」を維持することです。着地を成功させてはならないのです。

着地を成功させてしまったら、そこで根を張って一生その場にとどまり続けることになり、その意味で人間とは植物的でもあるのです。植物としての人間精神。それは自明性の大地に根を張って、揺るぎなくそこから動くことがないのです。

人は成功体験に囚われる、と言った場合の成功とはすなわち着地です。ですから成功体験に囚われない為には着地せず常に動いていることが必要です。着地せずに動くには、常に沢山の認識をすることです。沢山の認識をすればするほど、着地点は一定せずに動くことになるのです。