私の「フォトモ」は有り体に言えば「具象」であり、現実の模倣である。しかし現実を単に模倣することは、職人的ではあるが知的であるとは言えない。そこで私の「非人称芸術」は具象と抽象の垣根を越えようとしたのだが、しかし本当にそうなっていたのだろうか?
あらゆる「意味あるもの=具象物」に対し、その意味を捨象した視線を投げかけるならば、それらはことごとく「意味のないもの=抽象」へと変貌する。と言うのが「非人称芸術」の原理なのである。しかしこの考え自体は、十分に掘り下げられていない。
非人称芸術を再現したとされる私のフォトモは、ある水準の完成度を持っているが、その完成度は実に「意味の序列」によって成立させているのだ。意味の序列を失ったフォトモは(他人の失敗作を見て分かるとおり)文字通り意味を形成できずに紙屑になってしまう。
ここに理論矛盾が生じている。非人称芸術は「意味あるもの」から「意味」を剥奪することで成立するのに対し、非人称芸術を再現した作品であるフォトモを成立させるには、意味の序列化が不可欠だからである。
そもそも私が「非人称芸術」と言ったのは、私自身が「無秩序」を志向しているのではないことの、表明なのである。だらか私はいわゆる「廃墟趣味」でも「死体愛好家」でもないのである。廃墟とは、建物などの人工物より「人間の秩序」を差し引いたもので、その結果「自然の秩序」のみが作用し、それによって朽ち果てて行くのである。
「意味あるもの」から「意味」を捨象すると芸術になる、と言うコンセプトは「意味のないものが芸術である」というイデオロギーを根拠としているのであり、果たしてそれが正しいかどうかの検証を経ていない。そもそも私は、そう言いながらも「無秩序なものは芸術ではない」と認めていたのである。
「意味のないものが芸術である」という定義と「無秩序なものは芸術ではない」という定義は矛盾している。私はフォトモによって「無意味」を表現しているつもりで、フォトモそのものは「無秩序」では成立し得ないのである。
フォトモには明瞭に秩序が存在する。だからこそ私はフォトモが自分の表現たり得ると確信したのである。であるからこそ、私は芸術に必要なものは秩序であることを知っていたのである。しかし一方で「芸術とは秩序の破壊である」というイデオロギーにも囚われて、そこに混乱が生じていたのである。
結局のところ私はサヨク思想に冒されていたのである。左翼思想について勉強してこれを対象化しない限り、つまり自然的態度で生活している限り、私が育った時代に於いては自然とサヨク思想に冒されてしまうのである。それは唯物論であり、科学主義であり、「現実界」の向こうに「神」を見てしまうのである。
左翼思想というのもよく分からなかったのであるが、あらためて認識するとそれは唯物論で、唯物論とは何のことはない、科学至上主義であり、全くもって間違った古くて単純な認識に過ぎないのである。
岡本太郎の芸術論とは、左翼思想の枝葉であり、だから芸術とは「自然にできるもの」だと定義されている。人間が真の意味で自然体でいるならば、芸術はその人の内から自然と湧き出てくるはずだ、と言うのが岡本太郎の芸術論なのである。
そして「芸術は、爆発だ!」の言葉通り、新しい芸術はだた既成の文化を爆破させるように破壊することで、自然に生じてくるものだと説いている。人工的なビルを破壊して空き地にすれば、そこに自然に雑草が生えるように、そのように芸術は生まれるのだと日本人の多くは捉えている。
共産主義というのは、唯物論を根拠としていて、科学的な必然的な現象として、社会は資本主義から社会主義を経て、最終的に共産主義へと到達するとしているのである。全てが人間個人の意志を超えて、必然として、自然現象として、遷移してゆくのである。しかしその科学観はとっくの昔に間違いであることが明らかになっている。
にもかかわらず、現代の日本に於いては、共産主義的な唯物論が、多くの人々にとっての「芸術とは何か」という定義を基礎づけているのであり、自分も例外ではなかったのである。
赤瀬川原平著『超芸術トマソン』の冒頭はマルクスの『共産党宣言』のパロディになっているが、超芸術トマソン自体が共産主義的な唯物論の産物で、芸術を「自然現象」に還元しているのであり、私の「非人称芸術」もそれを受け継いでいたのである。
つまり、問題解決の糸口を「科学的必然性」に見出そうとしたのが、マルクスの共産主義だったのである。科学的現象は、人間一人一人の意志とは関係なく、必然的に遷移してゆく。だからその「必然的遷移」の科学的法則を見出すことができれば、後はそれに身を委ねるだけで、個人の悩みは解決する。
全く同じように、私も自分の悩みを解決するための「必然的な遷移」の物理法則を求めていたのである。それは無自覚的に左翼的な思想に影響されて、無自覚的に求められていたもので、その結果「非人称芸術」というイデオロギーとして見出されたのである。
私の場合は自分の左翼的影響が無自覚的であったために、同じように無自覚にそれを超えようとする力も働いていた。しかしどちらも無自覚的であったために、力が拮抗して、中途半端なところに落ち込んで、そこから出られないでいたのだった。