アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

天才とサヨク

 

本格の芸術の使命は実に芸術の道は、入るほど深く、また、ますます難かしい。だが殉ずるところに刻々の発見がある「生」を学び、「人間」を開顕して、新しき「いのち」を創造するところに在る。斯るときに於てはじめて芸術は人類に必需で、自他共に恵沢を与えられる仁術となる。

#岡本かの子『巴里のむす子へ』

 

 

芸術についてはどうしても「自分のこと」を語ってしまうが、それだけ「自分の問題」に囚われた領域に陥っているのであり、その「陥っている」状態を対象化しなければそこを脱することはできない。

さて、今時の日本で「サヨク」と言えばネット上で軽く馬鹿にされるような対象ではあるが、しかし戦後日本人の芸術観はサヨク思想がベースになっているのであり、こと芸術に関しては日本人のほとんどがサヨク思想なのである。

サヨク思想というのは、根本的にはフランス革命なのである。権力を革命によって打倒した後に、何の策もなく混乱しているだけなのがフランス革命以後なのである。美術においても「伝統」という名の権力が打倒されて以後は、様々な「イズム」が生じて権力争いの状況になったのであり、それがモダンアートなのである。

芸術は原初的には「権力」と結び付いていたのである。芸術の持つ「希少性」が権力を成立させ、権力の成立によって、人間は「人間の自然性」を超えた力=文明を獲得するに至ったのである。

であるから、芸術とは希少性があるものであり、それは原初においては反自然的な人工物であった。自然には本来的に希少性はなく、文明が進んで自然破壊が進むと逆説的に自然の中に希少性が見出されたに過ぎない。自然の希少性を芸術と結びつけることは本来的ではなく、正統性を欠いているのである。

岡本太郎に代表される日本人の芸術観は、自動生成される日本の自然環境と結びついた「芸術の自動生成論」なのだと言える。それは私自身がそうなのであって、この限りにおいてよく理解できる。日本人は芸術が自然と同様に自動生成されるものと信じており、だから「才能論」「天才論」が信奉されている。

芸術における「才能」や「天才」といった概念は、芸術が自動生成される条件を指している。思えば私は「完全な芸術」とは「純粋な自動生成の結果」であり、芸術の自動生成を人為的に阻害したものが、いわゆる「ダメな芸術」であると捉えていた。

そして私は、自分に才能が無く天才ではないことを自覚し、「才能」や「天才」に変わるあらたな芸術の自動生成の条件とそれを裏付ける理論を求めて、その結果「非人称芸術」のイデオロギーを見出したのである。

私の「非人称芸術」の下敷きの一つに「構造主義」があったのだが、実に構造主義サヨク的側面を持っているし、サヨク的に構造主義を捉えることはできる。つまり構造主義とは科学理論であり、その意味においては物理的必然による自動生成理論であるからだ。

私の欠点は、構造主義を背景に「非人称芸術」を語りながら、一方でフロイトの「無意識」についてほとんど何も知らなかったことにある。これは文字通り「片手落ち」でしかない。

フロイトの無意識は自動生成論ではあるが、物理現象とは「自動」のあり方が根本的に異なっており、実にその点が画期的と言えるのだが、そのことを全く理解しないまま、芸術の自動生成について、私は論じようとしていたのである。

無意識の自動生成を成り立たせるのが「シニフィアン連鎖」であるが、私にはこれが理解できていなかった。一方で私の「非人称芸術」の原理は「シニフィエ連鎖」であり、それは赤瀬川原平超芸術トマソン」を引き継いだものだ。

赤瀬川原平さんは著書『芸術原論』の中で「超芸術トマソン」とデュシャンのレディ・メイドの関連性を述べていて、それで私も自らの「非人称芸術」の根拠をデュシャンのレディ・メイドに据えようとしたのだが、結果としては失敗した。

私はあらためてデュシャンについて学ぼうと、日本語で読めるデュシャン関連の文献は、論文集、書簡集、伝記などほとんど読んだ時期があった。その結果、赤瀬川原平さんが示したデュシャン像は、実際とは大きく異なることが判明し、私はアテが外れてしまった。つまり私はそこで「シニフィアン連鎖」に初めて接したのだ。

ところで「自動的」とは何か?を考えるのはなかなかに難しい。例えば「自動的」の対義語を考えるのは難しい。辞書的にそれは「手動的」あるいは「他動的」だが突き詰めるとどちらも「自動的」の反対の意味を十全に表しているとは言えないのである。

そもそも芸術の自動生成を主張する岡本太郎の芸術が、十全に自動生成できているのか?ということ自体が疑わしく、けっきょくのところ岡本太郎自身が批判した「類型」に陥っているのではないか?それはつまり自動生成の理論が足りてないことの現れではないか?と思えるのである。