アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

想像とイメージ

「経験した」とはその経験によって「自分が変わること」を意味している。たとえ何かを経験したとしても、それによって自分に何の変化ももたらさないのであれば、それを「経験した」とは言わない。そして人が歳をとると、新たな経験をしても自分が変化することが徐々になくなり、経験そのものが失われて行くのである。

結局のところ、自分は若い頃の強烈な経験に未だに縛られて規定されている。これによって、現在の経験が「経験」とならずに無効化されてしまっている。自分に大変化をもたらした過去の経験が絶対化され、それ以上の変化が阻害されてしまっている。

そう考えると、自分は「芸術の創造とはイメージの出現である」というイデオロギーに囚われている。一般に、そのような人はコンセプチュアル・アートが理解できないし、コンセプチュアル・アートをイメージで理解しようとする。

自分は、芸術をイメージに還元するというイデオロギーから抜け出すことができず、その範囲内で模倣を排したオリジナリティを確立しようという、アクロバティックな方法論を見出し、それが「フォトモ」であり「非人称芸術」であった。つまり作者不在の非人称芸術をフォトモによって模倣すると、それで「人称的な誰か」の模倣が回避できるのである。

私はつまり「天才的な創造とは、完成されたイメージとして自らにもたらされたインスピレーションを、ただ模倣しているのだ」というように理解していた。そして自分にはそのように模倣すべきインスピレーションが降りて来ない、と思いなしていた。そこから「非人称芸術」の概念が生じたのである。