アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

作者とプロデューサー

「非人称芸術」という言葉を、自分独自の定義をカッコに入れて、その意味を考えないと、それは全く「片手落ち」になってしまう。そうやってあらためて考えると、作品にサインのある人称芸術と、非人称芸術と、その区別は本質的に曖昧であることに気づく。

作品が人間の「精神」の産物であるなら、人間の精神には集合的な無意識が深く関わっているのであり、非人称芸術的な要素が含まれている。そもそも人が「言語」を使う以上、言語は個人言語ではあり得ない共有物であり、言葉で編まれた個人の精神は「非人称」的側面を持つのである。

芸術における「作者」とは、たとえそれが個人製作であったとしても、実質的には共同作業における「代表者」であるに過ぎない。なぜなら「個人言語」があり得ないのと同様、純粋な意味での「個人芸術」はあり得ず、従って純粋な意味での「人称芸術」もまたあり得ないのである。

芸術における「作者」とは、映画におけるプロデューサーのよう存在であり「自分」の中に作品制作のための監督や役者や技術者など様々に優秀な人員を集結させる必要がある。そのような「人員」は自らが接続された集合無意識から選りすぐられる。

プロデューサーの手腕は、どれだけの「人脈」をその人が確保しているかにかかっている。そして、集合無意識としての人脈は、時空を超えて、取り分けはるか古代にまで時間を遡って、その時代の偉人たちと繋がり力を借りることが可能であるし、またそうしなければならないのである。

なぜなら時代を離れるごとに、そして地域を離れるごとに、文明を成立させた「基本」が失われて空洞化し「上っ面」だけになって行くのである。それは過去と現在との、そして中央と地方との、言語の隔絶を意味している。だからその空洞を埋める必要があり、それがプロデューサーとしての新たな「人脈づくり」となる。

芸術における「作者」とはたとえ個人制作であっても、様々な「他者」を使役して作品を制作するのである。例えばカメラのシャッターを押せば誰でも写真は撮れるが、どんな写真も「芸術」になるわけではない。「写真に写ったもの」は、取り分け風景の場合は撮影者の創作物ではない。

撮影者の創作物ではない風景が、写真には自動的に写ってしまう。風景は自分とは異なる他者たちの創作物であるが、それらの構成要素に対し作者が自覚的にプロデューサーとして振る舞うならば、その写真は「芸術」として完成され得る。

自分の作品の複写でもない限り、写真を撮れば不可避的に様々な「他者が作ったもの」が写り込む。これらを写真の作者がプロデューサー的な立場で「芸術」として統合すれば、その写真は芸術になる。逆に「写真家」を気取ってその実「写真」として撮れてない人は、写真を「写真」として統合する能力がないのである。

絵画も同じであって、何かを描けば取り敢えずは「絵」にはなるのだが、それが「絵画」や「芸術」になるには作品の要素をそのように完成させるプロデューサーの能力が必要になる。

写真とは絵画の派生であり、両者は基本的には異ならない。例えばカメラのシャッターボタンを押せば不可避的に「他人が作ったもの」が写真に写るが、絵画の場合も何か自分の自由に描いてみても、大抵は既にある絵画「他人が作ったもの」の模倣になってしまい、真の意味で自分オリジナルの絵画を成立させるのは非常に難しい。

それは人が何かを意見を言う場合、誰も述べていないような、真の意味での自分オリジナルの意見を言うのが難しいのと同様である。自分オリジナルの意見を述べるには、有り体に言えば勉強と観察と人生経験が必要なのであり、それが足りない人の意見は「他人の意見のコピー」つまり「写真」なのである。

写真を「芸術」として撮影することは、あるいは絵画を「芸術」として描くことは、他人の意見のコピーではなく、他の誰も述べていなかった自分オリジナルの意見を述べることと同じなのである。

逆に言えば、例えば知的に振る舞う人は、知的な他人の意見をコピーして、さも自分オリジナルの意見のように述べるのである。いやこの場合「オリジナル」と言う言葉は削除しなければならない。なぜなら多くの人は真の意味での「オリジナル」は求めていないのである。

多くの人が求めているのは、自分たちが知っている「落とし所」なのである。例えば知的に振る舞うひとは、知的に振る舞う他人の意見をコピーして、知的な人としての「落とし所」として世間に向かってそれを述べるのである、

写真機、と言うものは人間の内のある種の本質を現しているのであり、人間とは本質的に写真機のようなもので、お互いにお互いをコピーしあっているのである。そして多くの人は、その人自体の存在が、誰かの姿を写した「写真像」そのものなのである。

自分自身が「像」そのものであることから抜け出すには、自分が交流する範囲の小さな人間関係から抜け出す必要がある。最も手軽な方法は、書物によって、自分が属するのとは違う場所、時間、そして「階級」に触れることである。