アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

価値転倒には二種類ある

一口に「良いもの」と言ってもそれには「自分が良いと思うもの」と「世間一般に良いと言われているもの」と「普遍的に良いもの」の三種類がある。

そして私の価値観は、それが「非人称芸術」なのだが、本来は芸術ではないものの価値を転倒させて、芸術だとしているのである。しかしこの「転倒」というのが曲者で、転倒した価値は「主観的な価値」であっても「普遍的な価値」であり得るのか?ということが問題になる。

つまり私は「非人称芸術」によって曲がりなりにも美術史に参与しようとしたつもりだったが、だからこそ、それによって見出された価値が主観でしかなく、何ら普遍性が無いのだとしたら、これは問題である。

思い返せば私が依拠していた岡本太郎の芸術論には「普遍的に良いもの」という観点が完全に欠落していた。岡本太郎の芸術論は「自分が良いと思うもの」と「世間で良いと言われているもの」の対立だけが説かれている。

赤瀬川原平さんのトマソンも、普遍的な価値としては「良くないもの」の価値を反転して「良いもの」としている。それはデュシャンのレディ・メイドもそうであるし、利休の高麗茶碗もその意味で同様である。

そもそも価値の転倒とは何か?ということであるが、ソクラテスは世間的な価値を転倒させ、普遍的な価値を打ち立てた。或いは普遍的な価値を提示することで、世間的な価値が転倒していたことを暴いて見せた。

つまり哲学的な価値転倒とは、あくまで普遍的な価値を打ち立てる行為であって、これによって主観的な価値や、世間的な価値が転倒させられているに過ぎない。科学的発見も同様で、それまでの間違った認識が転倒させられるのである。

これに対してフランス革命の価値転倒は性質が異なっている。確かに当時の絶対王政は腐敗して機能不全に陥っていたが、その価値を転倒させ庶民が政治的実権を握っても、結局は「良くない政治」が行われ社会は混乱し迷走し続けたのである。

フランス革命に起源を持つ共産主義の価値転倒も全く夢想でしかなく、実際には実現しないことが歴史的に証明されてしまっている。重要なのは「価値転倒」と言った場合に二つの意味があり、これを峻別することである。

価値転倒には「哲学的価値転倒」と「フランス革命的価値転倒」の二種類がある。そして、歴史的には「哲学的価値転倒」だけに意味があり、「フランス革命的価値転倒」には主観的、或いは世間的な意味しか無い。

そう考えると岡本太郎の芸術論は明確に「フランス革命的価値転倒」であったし、赤瀬川原平超芸術トマソン」も、私の「非人称芸術」も、「フランス革命的価値転倒」の流れを汲んでいたのである。

フランス革命的価値転倒」と「哲学的価値転倒」とを混同してはならない。共産主義者はこれを混同しているがために間違っているのであり、岡本太郎の芸術論を信奉している人々も、その流れを汲んでいる私自身も同様である。

フランス革命的価値転倒」から脱するには、その価値観をカッコに入れて棚上げし、つまりその意味での「価値転倒」を廃止して「まともな価値」で世界を見直すことだ。

つまり世界を「価値転倒」の眼差しで見ている人は、自分が本来の価値を転倒させていることを一方では知っている。そして、その意味で「まともな価値」が何であるかも知っている。その自分の知っている「まともな価値」で世界を見直すことが、自身の転倒から回復する手段なのだ。

私の「非人称芸術」とは、もしかするとこれによって、科学的で唯物論的な共産主義の完全な形を実現してしまったのかも知れない。しかしそれは、その限りの意味しか持たず、その外部に「自由主義」の価値観が存在している。

岡本太郎の「誰もが芸術家になれる」という芸術論が共産主義思想なのであれば、私の「非人称芸術」はそれを徹底化した完全版であり、完全なる共産主義だと言えるかも知れない。現に私は「非人称芸術」によって主体的な創造の自由「人称芸術」を否定している。

結局のところ私の「非人称芸術」とは芸術を含む人の営みの全てを「現実界」に還元しようとしたと言えるが、だとするの共産主義そのものが、人間というものを「現実界」に還元しようとしたのであり、だからこそ「唯物論」であり「科学的社会主義」であったのかも知れない。

しかし人はパンのみに生きるにあらず、人間という存在を現実界に還元することはできない。文明の基本は象徴界的な人と人との結びつきであり、現実界を原理として社会を成立させることは不可能なのである。

同様に、象徴界を排除した現実界のみによって芸術を成立させることは不可能である。しかし自然至上主義者、芸術の美しさより自然の美しさこそが優位であると考える人は、芸術を現実界に還元しようとしている。