アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

文明と反自然

文明とは「力」であって、文明の力は自然の力と拮抗しています。文明の力が強い所では自然の力は抑制され、文明の力が弱い所で文明は自然の力に圧倒されます。文明の力が強い所とは一つにはアングロサクソンの地であり、これと比較して中国は文明の力が弱く自然の力がより強く働いています。

中国文明は白紙還元主義であり、支配者が交代するたびにそれまでの文明が破壊され、新たな文明が築かれます。即ち、文明の継続性、構築性という点で劣るのであり、それだけ文明の力として弱く、だからイギリスとの戦争に負けたのです。

大衆人の運動の常として、凡庸で時代に即しておらず古い記憶もなければ「歴史意識」もない人間に指導された典型的な大衆人の運動は初めからあたかも既に過去であるごとく、つまり今起こりつつありながらあたかも昔の人類に属しているかのような振る舞い方をするのである。#オルテガ 『大衆人の反逆』P.130

オルテガの指摘通り、我々大衆の芸術論はいつも時代錯誤の古びたものに過ぎず、私の「非人称芸術」という主張もそうしたものに過ぎなかったのです。我々大衆が「アート」を語るにしても「写真」を語るにしても歴史意識を持たず、その議論は永遠に古いまま堂々巡りが目的で、進歩は望まないのです。文明とは歴史性であり、歴史意識を失った我々大衆には必然的に「自然のサイクル」が蘇り、それが歴史を超えた堂々巡りとなるのです。

文明とは構築物であり従って「高さ」がある。そして文明が進歩するほどに「高さ」は増して行き、さらに近代になり国際社会になると異なる文明同士の「高さ」が積み重ねられ、しかも科学の発達によって「高さ」はどんどん増して行き、我々大衆はその「高さ」に全く追いつけず、ますます大衆化するのです

オルテガの指摘通り、あらゆる「反〇〇」がそれを否定する〇〇より必然的に古くなってしまうのであれば、反文明的態度は文明より古くなってしまうのであり、もっと言えば「文明」とはそれだけで「新しい」事を意味している。実際、文明はあらゆる自然物より「新しい」のです。

文明は自然よりも「新しい」。しかし同時に文明とは「反自然」であり、オルテガの理屈で言えば自然より古いはずです。実際、文明的な人工物は生物が発生する以前の「もの」を加工して作られます。あるいは生物である植物を木材という「もの」に還元し、それを加工します。

人工物は反自然物であり、それは生物発生以前の「もの」へと後退しています。しかしそれは物事の一面であり、原始的生活より文明的生活の方が、新しく進歩していると言えるのです。

そもそも「新しい」とは生物進化に生じる現象として確認できるのです。人間の文化の進化、自然的な狩猟採取文化から文明への進歩は、生物進化の延長として捉えられるのです。

物質は進化することがありませんが、生物は進化し、そして人間の精神も進化し、これと連動して人間の文化も進歩するのです。人間の身体は生物学的には進化しませんが、人間の精神や文化は、生物進化の延長上として進化するのです。そこで「新しい・古い」「進歩・後退」が問題になります。

「人間」とは時代や地域によって、そのあり方そのものが異なります。人間はつまり、他の動物に比べ格段に環境からの影響を受けやすいのです。例えば岩合光昭さんが世界中で撮った猫の写真を見ると、猫はどこにいても「猫」だなと思うのですが、猫はそれだけ環境の影響を受けず「猫」である事を保つのです。

街中を行き交う人々を見て、それぞれみんなは何をやっているのか?と言えば、自らの内に環境を取り込み同化しているのです。その意味で人間は「鏡」であり、透明な存在です。しかし人は環境を取り込みながら別の環境へと移動し、そこでは不透明な存在になるのです。人間には透明、不透明の両側面があります。

人間は誰でも映画監督です。人間は目で見たものを脳内で編集し、そのようにして自分で作った映画を観ているのであり、決して無編集の「現実そのもの」を見ているわけではないのです。

人間の脳には「中」があります。ですから人間は「脳の中」を「外」に出すことができるのです。人間は「脳の外」である環境を「脳の中」に取り込み、それをまた「脳の外」へと出し、その循環によって文明を維持し、または進歩させます。