アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

猫は猫の専門家

自明性とは相続物です。自分が能動的に獲得したのではなく、受動的に与えられた豊かな相続物が自明性です。

「慢心しきったお坊ちゃんの時代」とオルテガが『大衆の反逆』に書いている通り、現代文明においては我々大衆を「目に見えない召使い」達が取り囲み、ありとあらゆるお世話をしてくれます。

有り体に言えば、技術が進歩し世の中が便利になるほど人々は甘やかされ、お手伝い付きの屋敷に生まれた貴族のお坊ちゃんのように、当事者意識を失うのです。

我々大衆とは、オルテガが指摘したように世襲貴族なのです。産業革命は機械の発明によって、奴隷を不必要として解放し、同時に誰もが奴隷付きの貴族的な生活をする事を可能にしたのです。図式的に言えば、奴隷がいなくなり、そのぶん世襲貴族が増え、それが大衆となったのです。

現代の美術家が美術を「自明の美術」として捉え、現代の写真家が写真を「自明の写真」として捉えているならば、そのような人は「美術」や「写真」を遺産として相続した貴族のお坊ちゃん、お嬢ちゃんであり、「美術とは何か?」「写真とは何か?」と言った問題と自ら格闘した当事者ではないのです。

オルテガの指摘通り「宇宙の総体的解明」こそがヨーロッパ的科学、文化、文明の名に値する唯一であるなら、芸術もまた「宇宙の総体的解明」の一環として行われるべきだし、芸術としての「写真」もまたそうあるべきなのです。

表現として「写真」を撮ろうとすると、何をどう撮っていいのかがわからず、途方に暮れてしまいます。しかし「宇宙の総体的解明」と言う目標設定があるのであれば、方法は見えてきます。

人は誰でも「宇宙の総体的解明」に向かう事が出来ますが、どのようにして「宇宙の総体的解明」に向かうのかと言う具体的な方法や経路は人それぞれに違ってきます。そこで例えば写真家の場合は、「写真」を通じて自分独自の仕方によって「宇宙の総体的解明」に向かうという事が可能となるのです。

以前「食べ物エッセイ」で私は料理にとって重要なのは「好奇心」だと書きましたが、実に表現する事自体にとって「好奇心」は非常に大きな要素なのです。好奇心が弱い人は表現も弱く凡庸でつまらないのです。そして好奇心は究極的には「宇宙の総体的解明」へと向かうのです。

結局のところ現代人は好奇心が衰退しているのです。現代の美術家や写真家に元気がないのは「好奇心」が衰退しているからです。ここは私自身も反省しなくてはなりません。オルテガが指摘するように「専門家」という領域に居座ると、好奇心はどんどん衰退して行きます。

オルテガの言う「専門家」とは何か?と言えば、例えばあらゆる猫は猫の専門家であり、鶏は鶏の専門家であり、カマキリはカマキリの専門家であり、他の何物でもないのです。猫は猫の専門性に閉じこもり、決して狼や象になろうとは思わない。本能がそれぞれの動物の専門性を固定するのです。

しかし人間は、本来は他の動物のような専門性が本能によって固定されず、だから「宇宙の総体的解明」へと向かう事ができるのです。しかし多くの人は産まれてしばらくは様々なことを学び、一旦「自分」と言う専門性を確立すると、それ以外の専門性に興味を示さず、以降ますます専門化して行くのです。