アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

自明と擦り合わせ

ウィキペディアの「自明」の項目を見ると「自明とは、証明や説明、解説をしなくても、それ自体ではっきりしていると判断されること。ただし、必ず正しいことが保証されるものではない。」とあります。

そして、まさに世間一般で「証明や説明、解説をしなくても、それ自体ではっきりしていると判断している事」に対し「それは必ず正しいことが保証されるものではない」などと言う人は、「面倒臭いことを言う人」として嫌われたり、煙たがられたり、敬遠されたりするのです。

例えば「写真とは何か?」と言うことも、多くの写真家にとって自明的に「証明や説明、解説をしなくても、それ自体ではっきりしていると判断される事」なのであり、だから「写真とは何か?」を改めて根本的に問うことは、暗黙のルールとして禁じられているのです。

またウィキペディアの「自明」には続いて「こういった問題においては、主観的視点(客体)という部分を含み、何が自明であり何が自明でないかは、個人の感覚によって差があるため、より客観的な記述が求められる場合に於いて、より厳密な定義を必要とする。」とあります。

しかし、例えば「芸術とは何か?」は非常に複雑な問題で、芸術において「何が自明であり何が自明でないかは、個人の感覚によって差がある」事は一般的にも認められています。しかしその反面「より客観的な記述が求められる場合に於いて、より厳密な定義を必要とする。」などと言うとこれまた非常に嫌がられるのです。

整理すると「芸術とは何か?」と言う問題については二種類の自明性があって、一つには世間一般の共通了解としての自明性として「芸術」がある。もう一つは芸術は定義が難しい複雑な問題で、だから「芸術とは何か?」の自明性は各自の主観で違って当たり前だ、と言う意味での自明性があるのです。

つまり自明には「世間的自明」と「個人的自明」の二種類があるのです。そして「世間的自明」と「個人的自明」を擦り合わせたり、あるいは「個人的自明」と「個人的自明」とを擦り合わせようとすることは、非常に嫌われるのです。

「世間的自明」と「個人的自明」、および「個人的自明」と「個人的自明」の擦り合わせが嫌われる理由の一つはそれが「喧嘩の元」と思われているからで、だからネットのコミュニケーションでは皆できるだけその話題に触れないようにし、異なる意見が現れた場合は「人それぞれ」を尊重し衝突を回避します。

一般的に「自明」と「自明」の擦り合わせをすると「口論」に終わって不毛だと思われていますが、本来的にそれは客観性の追求であり、真実の追求の方法なのです。しかし「自明」を基盤に生きる多くの人は、それが破壊されることを、なんとしてでも避けようとするのです。