アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

まどわし神

花輪和一の漫画に『まどわし神』という作品に、人間の認識力を惑わせ、道に迷わせて食糧をかすめ取る、架空の寄生動物が登場するのだが、実際に多くの人が私を含めてこの「まどわし神」に取り憑かれている。

「芸術」を認識するのは本来は非常に難しいのであるが、それがあたかも誰でも簡単に認識できるかのように錯誤させるのが「まどわし神」の作用なのであり、私もそのように惑わされていたのである。

「芸術」を認識するのが難しいのは、一つにはそれが広範な表現分野に渡って適応される概念で、絵画、彫刻、版画、写真、詩、文学、舞踏、などに「芸術」の概念が適応されるからであり、しかも絵画や彫刻その他の表現であってもそれが必ずしも芸術であるとは限らないからである。

実に広範な表現分野の表現物が「芸術」に置換可能なのであるが、しかしその置換するところの「芸術」を理解するのは非常に困難なのである。もう一つには芸術は「高み」を目指したものであって、これに対し人間の認識はデフォルトで低位に設定されており「高み」を認識するのが困難なのである。

だから「芸術」を認識するには出来るだけ多くの芸術作品の「実物」を観ることが必要で、しかも「高み」を目指して理解しようとしなければならず、それには相応の時間と手間が掛かるのであり、非常な困難さが伴うのである。

そもそも芸術に限らず「認識」という事自体が非常に難しいことなのだが、多くの人はその事すら認識していない。「認識」の基本を、生物としての人間に遡って考えると、それは「食物」の認識と言うことになるのだが、何が食物で何が食物でないのかの認識は、実は非常に難しいのである。

例えば、大自然の山野中に放り出されたとして、その環境の中で何が自分にとって必要な食べものなのかを認識するのは、非常に難しい。一般に、木の実が熟した赤色は動物に対し食物であるというサインだとされるが、多くは鳥に対してのサインであり、人が口にすると渋くて食べられない実が大半なのである。

多くの人が、何が食物なのか?の認識が簡単だと思っているのは、現代人が口にする食物の大半が店で売られていて「食品売り場で食品として売られているからこれは食物なのだ」と認識しているに過ぎない。つまり「これは食物です」と示されたものを「食物」だとして認識しているに過ぎない。

人間が「本能が壊れた動物」なのだとすれば、何が食物なのかの判別能力も本能的に備わっていない。そこで原始社会では何が食物で何が危険な毒なのかが、先祖代々言い伝えられている。つまり人間は、何が食物なのかを他人から教えられなければ認識できず、だから人間にとって食物の認識は難しいのである。

一方で人間には、味や匂いで何が食物で何が食物でないかを認識する能力が、本能的に備わっている。端的に言えば、腐って食べられないものは「臭い匂い」として関知され、それは食物ではないと認識することができる。

例え腐っていなくとも、紙や、プラスティックや、土などが食物でないことは、それらを実際に口に入れた瞬間に認識することができる。その意味で、何が食物で何が食物でないかの認識は、簡単にできると言える。

一方で現代社会では、コストを抑えた添加物たっぷりのいわゆる「偽食品」が数多く出回っているが、この場合は、これを食べただけで偽物だと認識できる人と、食べただけでは偽物と認識できずに騙される人とがいるのである。

端的に言えば、市販品の「偽食品」ばかり食べて育った人は、その味が当たり前になり「偽食品」を偽物だと認識することができない。つまりさまざまな「偽物」が数多く出回っている現代において、本物と偽物の判別をすることが、つまりは「認識」それ自体がますます難しくなっていると言える。