アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

認識と自己省察

昨日は東京都写真美術館の『コレクション展』と『新進作家展』を観に行ったのだが、写真というのは基本的にどれも同じ「写真」であって、その良し悪しの判断は非常に難しい、と改めて思った。そもそも写真に限らずものの良し悪しの判断は非常に難しいにも関わらず、多くの人はそれを簡単に済ませている。

「ものの良し悪しの判断は非常に難しい」という大前提があり、これを知っていれば「写真の良し悪しの判断は難しい」ということに対し恐れる必要はなくなる。それは多くの人が思っている以上に難しく、自分が分からないのは当たり前なのである。

「ものの良し悪し」と言うものは自分の「外部」に存在し、だからそれを学んで自分の内部に取り込む必要がある。人間とは精神であり、精神とは関係であり、関係への関係であるとキルケゴールは説いたが「ものの良し悪し」を知ることは関係への関係としての精神を構築することに他ならない。

ものの良し悪しを「自分の好み」を基準に判断する人は、関係への関係としての精神の連鎖を断ち切っている。しかしそもそも「自分の好み」と言うもの自体が、関係への関係として構築されたもので、その関係性の構築をある段階で断ち切るのである。

「ものの良し悪し」の判断で私が間違っていたのは一つは「自然至上主義」に囚われていたことである。これは養老孟司さんも主張していたが「人間の技術がいくら進歩してもハエ一匹作ることができない。それほど自然は人間の技より優れている。」と言う認識で、一見もっともらしく思える。

しかし人間の知性の一つに「自己省察」があり、自然科学もまた自己省察の一環なのである。つまり例えばハエの研究をする場合、自己の外部存在としてのハエを研究するつもりでいるのは素朴実在論でしかなく、現象学的にはハエの研究をすることも自己省察なのである。

つまり自然物を研究し、その素晴らしさを解明する事は、人間の外部に存在する自然の人間を超えた素晴らしさを解明した、と言うことでは決してないのである。現象学的には「外部」を設定できず、科学的成果は「自己省察」の成果に還元できるのである。

自然科学とは、人間の外部に存在する自然のメカニズムを解明する事ではなく、自己自身を省みることの一環であり、天体観測もハエの生態観察も、自己自身を省みることの一環なのである。

科学の進歩とは自己省察の深化である。

認識とは自己省察であり、認識の浅い人は自己省察が浅いのであり、問題が認識できない人は自己を見失っているのである。

認識とは自己省察であり、世界を見つめることは自己を見つめることと同意である。

文明は人間の自己省察の成果として現象している。

人によって自己省察の深度が異なっている。

様々なアーティストの作品を見て、その良し悪しの違いが分からないということは、それぞれのアーティストがどれだけ自己省察しているか、その深度が分からない、ということである。他人の自己省察を測るには自分の自己省察を深める必要があり、そして自分とは他人なのである。

人によって自己省察の深度が異なり、自分とは他人なのであり、自分が他人と対面するとは、自己省察の深度が様々に異なる自分自身と対面することなのである。

人と人とが出会うと、たいていの場合、お互いに自己省察が足りていない。

人は何の自己省察もなしに産まれてくる。