アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

文明と中華

多くの人は自信家で、夢を見ている。自信家で夢を見ている人に対し、現実を伝えようとすることは無意味である。寝ながら夢を見えいる人にいくら声をかけても意味がなく、無理やり目覚めさせても怒りを買うだけである。多くの人は何よりも睡眠を妨害されることを嫌がるのであり、それをすべきではない。

実に、文明の本質において古来より朝鮮が採用してきた事大主義は正しいのではないか。つまり文明の起源が一つであるならば、文明の本質とはコピーであり、コピーするにはコピー元を自分より優れたもの=文明である事を認めなければならない。

真に優れた者は、自分が優れていると言う幻想を抱かず、自分より優れた者が誰であるかを見抜き、つまり誰が文明の源流につながる文明の選考者であるかを見抜き、それをコピーしようとする。これが事大主義と言うことの、一つの説明である。

その意味で、日本の明治維新というのは事大主義であり、欧米文化を自分たちより優れた文明の先行者として認め、これを積極的に学んで自らも「先行文明」の仲間入りを果たそうとしたのである。

一方で同時期の朝鮮は誰が自分たちより優れているかの判断を間違えて、実際にはもはや遅れてしまっている中国(清に滅ぼされた明)を中華として認識し、そして欧米文化を退けようとし、そのように事大主義そのものを間違えてしまったのである。

世の中には、自分に自信があって夢を見ている人と、事大主義の人の二種類がいる。人々に根拠のない自信を持たせた元凶の一つが岡本太郎的な「小中華思想」であり、それは小さな自分を世界の中心に咲く華のように夢見る思想なのである。

私自身は小中華思想と決別して、中華思想と事大主義で行こうと思うのである。中華思想とは、本来的にはいわゆる中国文明を指すのではなく、人類そのものの文明の起源は一つであり、その意味で一つの中心が存在するのでありその中心からの道筋を正しく認識してこれに学ぼうとするのが事大主義なのである。

結局、近代以降の中国文明は本来的な意味での中華ではなく、中心から外れ華も枯れている。近代とはイギリスの産業革命から始まったのであり、だからイギリスとイギリスの血を引くアメリカのアングロサクソン文明こそが近代以降における「中華」であり、江戸から明治への日本の事大主義は正しかったのである。