アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

他者と強要

自己は自分によって措定されるか、他者に措定されているかの何れかだとキルケゴールは述べているが、例えば自分が自分の名前を名乗ったとしても、その名前は他人に付けられた名前なのである。

例えそれが自分で付けたペンネームであっても、その人は常にあらゆる他者から、その同じペンネームで名付けられる。自分の名前は自分で決めるとして、例えば毎日違う自分の名前を自分で自由に付けようとしても、他者はそれを絶対に許さず、毎日同じ名前をその人に付けさせようとするのである。

2ちゃんねるなどの匿名掲示板において、「名無し」のままでは議論が成立しない。匿名掲示板において議論を成立させるためには、固定したハンドルネームを付けるか、固定したトリップを表示させるしかない。この場合、ハンドルネームやトリップが発言する毎に変わるならば、議論そのものが成立しない。

同じ名前でいることは、自分よりも他者がそのように要求するのである。自分にしても、他人に対し常に同じ名前であることを要求する。例え偽名を複数使い分けたとしても、同じ人物に対してはいつも同じ名前を名乗るよう、その人は他者から常に要求され、そうするように仕向けられている。

キルケゴールは「依存」という言葉を使っているが、自分の名前に関しても、常に他者に依存している。例えば自分は常に同じ名前を名乗ったとしても、他者が会うたびに自分を別の名前で呼ぶならば、自分が名乗ることそのものが成立しない。そのように自分は他者に依存しているのである。

自分は自分のその同じ名前を常に名乗るよう、他者に強要されている。そして自分もまた、他者に対し常に同じ名前を名乗るよう強要している。同じように、自分がより優れた美術家になりたいのであれば、自分が他者からより優れた美術家になるよう強要されなければならない。

つまり認識とは模倣であり、他者の認識は他者の模倣であり、自分はそのように他者を模倣するように、他者から強要されている。愚か者は、自分以外の愚か者から、自分もまた愚か者であるよう強要される。そしてまた他者に対し愚か者でいるように強要する。だから愚か者は、自分の強要が効かない優れた者を嫌うのである。

或いは舌の肥えた者は、他人にも舌の肥えた者であるよう強要するが、その強要が効かない相手を「味のわからない奴」と言って嫌うのである。そしてその舌の肥えた者には、他の舌の肥えた者から、舌の肥えた者になるよう強要され、これを受け入れた経緯がある。

犯罪者は他の犯罪者から犯罪者であるよう強要され、自分もまた他人に犯罪者であるよう強要する。いや正確には犯罪者であるよう強要できる他者を求める。例え一匹狼の犯罪者であっても、あらゆる犯罪は他者の模倣であり、自らの犯罪も他者に模倣されるのであり、その意味で他者に犯罪を強要するのである。

人は他人から自己のあり方を強要される。そのような自己は、果たして自己と呼べるのか?そこで自分は他者の強要に対しこれを突っぱねることができる。しかしある時点で他人の強要を突っぱねたとしても、その人はそれまでに数々の他人の強要を受け入れて、文字通り自己を形成してきたのである。

子供は大人の様々な強要を受け入れながら、自らも大人になろうとする。しかし大人になってしまえば、もうそれ以上のいかなる強要も不要だと突っぱねる人がいる。そのような人は自己確立しているつもりで、実際には自分の中の他者に同じことを繰り返し強要され続け、そのことに一向に気付けないでいる。

キルケゴールが述べる「関係」とは、例えば言葉であり約束である。言葉は約束で成り立っているが、二人だけの約束では言葉は成り立たず、三人での約束でも言葉は成り立たず、もっと大勢の人びとの間で言葉という約束は成立する。自分が言葉を話すとは、大勢の人びととの間の約束事に参与する事である。

 自分というものは、自分が思っている以上に他人なのである。自分が思っている「自分」とは、自分の中の他人であり、それは自分の中に閉じ込められて、ネズミが車輪の中をくるくる回るように、同義反復し続ける特定の他人なのである。