アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

感情と思考

マキャヴェッリの『君主論』を君主でもない一般人がなぜ読まなければならないのか?と言えば、現代日本は民主主義社会であり、文字通りに言えば人は誰でも庶民であると同時に君主なのであり、だから『君主論』や古代中国の帝王学である諸子百家などを読む必要があるし、実際的に役立つのである。

マキャヴェッリは君主たる者他人に見くびられてはならず、恐れられなければならない、と説いている。そして私は「フォトモ」という技法が他人に見くびられやすい手法であると、自分には思えたこともあって、自分なりに勉強して理論武装に努めてきたが、今振り返るとこれは対外的にほとんど無意味だった。

分かってきたのは、日本社会で評価されるのはまず学歴の高い人間で、さらに高学歴でありながら実際には無能な人間が、人々には最も喜ばれるのである。一方ではその逆に、低学歴でありながら高い能力を有する人間は、非常に忌むべき対象として徹底的に排除されるのが、日本社会の特徴でもある。

現代の日本人の多くは「無宗教」を自称しながら宗教というものを対象化せず、その結果、日本固有の宗教にどっぷり浸りながら、そのことが自覚できないでいる。

そのような観点からすれば、多くの日本人は実に「神」というものを非常に畏れている。そして一般的に日本人にとって「学歴」とは神が与えし神聖なもののように捉えられており、だからこそ高学歴者が実際的に無能であった場合、人々に信頼と共に安心を与え、大いに喜ばれる。

この反対に、学歴がないのに高い能力を発揮せる人間は、神の領域を侵した者として非常に忌み嫌われる。これはひとえに日本人に固有の宗教観によるものであり、日本人が自らの宗教を対象化できないことに起因しているのである。

例えばキリスト教以外に宗教が存在しなかった時代のヨーロッパにおいて、宗教そのものが対象化されることはなかった。宗教の対象化とは、異なる宗教との比較によって可能となるからである。その意味で現代の日本社会は宗教的には近代化しておらず、まるで中世のようだと言うことが出来る。

現代の日本社会には固有の宗教的禁忌があるにも関わらず、多くの人はそれを自覚せず、その意味で極めて宗教的な社会であると言える。

多くの日本人は「神はいない」と口では言いながら、その実さまざまな神を畏れこれに縛られている。これまで判明しているひとつが「原理」をもたらしてくれる外国人の神であり、もうひとつが学歴を授けてくれる神である。多くの日本人はこのような神に絶対に逆らうことはしないのである。

自分のことを反省的に捉えると、自明性の問題は神の問題とダイレクトに結び付いているのかもしれない。山本七平は宗教の問題を宗教的禁忌の側面から捉えてみせてくれたが、あらゆる宗教には食物禁忌があり、無宗教のはずの日本もそれは例外ではない。

無宗教であるはずの現代日本にも食物禁忌は存在する。イヌやネコやカラスなどを食べることを日本人の大半が忌み嫌っているが、一方では同等の知性を持つ豚や牛も食べるし、カラスと同様に鳥類であるニワトリやカモも食べるので理屈には合わない。

そのように、冷静に考えて理屈に合わない禁忌について、山本七平はそれは宗教的な問題であると指摘したのである。言い換えればこれは自明性の問題であって、自明性の問題は実に宗教的な問題なのである。

自明性とはそこから先は思考が及ばない領域を指しているのであり、思考が及ばない領域は宗教の領域である、とは言えないだろうか。

思考が及ばない領域を侵犯すると、人は感情的に反応する。だから多くの日本人はイヌやネコを食べる人に対し感情的になり、同様に本来は外国からもたらされるべき「原理」を日本人が考案することに対し感情的になり、また低学歴の者が高い知性を示すことに対し感情的になるのである。

人にはそれぞれに思考が及ばない領域が存在する。しかし一方で人は思考する存在であり、その意味で思考が及ばない領域を突き崩しながら、思考の領域を広げていかなければならない。しかし思考の及ばない領域を侵犯すると人は感情的に反応し、ここに矛盾が生じ、一般に哲学が嫌われる理由もここにある。

つまり宗教的禁忌、考えてはいけない領域を侵犯しながら思考の領域を広げて行くのが哲学であり、その意味でフロイト最晩年の著作『モーセ一神教』では、ユダヤ人であるフロイト自身が宗教的禁忌に抗し「考えてはならない領域」に真正面から斬り込んでいる。