アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

時間と偽装

サブカルチャーとは何か?と思ったら、本来の仏教に対する大乗仏教がサブ仏教だった。本来の文化に対する民衆のための文化がサブカルチャーであるなら、本来の仏教に対する民衆のための大乗仏教はサブ仏教なのである。

カルチャーとサブカルチャーの違いは何か?と言えば、一つには永続性に違いがある。サブカルチャーは有り体に言えば流行りものなので、スパンが短い。安価のため物質としての耐久性も短く、しかもそれを理解するための予備知識がいらない、つまり理解に必要なスパンが短いのである。

本来の文化とは歴史的継続性に根ざしているのであり、それを理解するにはそれなりに時間と手間をかけて学ぶ必要がある。ところがサブカルチャーは、時間のスパンが全く異なっている。サブカルチャーの時間感覚に慣れ親しんでいると、本来の文化が理解できなくなってしまう。

私自身もサブカルチャーにどっぷり浸り、漫画やアニメなどに夢中になり、哲学や思想も入門書ばかりを読んでいたのだが、最近はきちんとした文化であるところの「美術」や「哲学」に向き合うようになり、その際に超えなければならなかったのが「時間感覚の相違」だったのである。

かつての私はハイカルチャー的なものに反発心を抱いていたのだが、今から思えば私はその「偉そうに勿体ぶった」態度に反発していたのであり、そうしたものは偽物に過ぎなかった。

つまり、ハイカルチャーサブカルチャーに比べて時間のスパンが長いのが特徴だが、ハイカルチャーの偽物は時間の長さを演出するため、ワザと「勿体ぶった」態度を取るのである。

あるいは、ハイカルチャー的な時間のスパンを理解できない人が、ハイカルチャーとは「勿体ぶること」であると(短いスパンで)理解し、そのような態度を取るのである。

美術作品にも、非常に長いスパンの思考により作られた作品と、勿体ぶっただけで何も考えてないに等しい作品とがある。

思考とは一つには時間の長さを意味し、だから「勿体ぶる」という態度は思考における「時間の偽装」なのである。

思考とは一つには時間の長さではあるが、単に時間をかけただけでは思考にはならない。思考における時間は「筋」と結び付いている。「筋」とは人間の長い歴史の中で育まれてきたものであり、その意味での長大な時間を有している。

アリストテレスは『詩論』の中で、詩において最も重要なのは「筋」であると説いているが、それは哲学や芸術など学問は全てそうなのである。筋とは時間をかけて思考する際の筋道であり、筋のない思考はいかに時間を掛けようとも短いスパンの思考と変わらないのである。