アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

マキャヴェッリ『政略論』抜き書き2

●われわれがなんとしても深く考えておかなければならない点は、どうすればより実害が少なくてすむかということである。そしてこれを金科玉条と心得てことにあたるべきなのだ。というのは、完全無欠でなにひとつ不安がないというようなものは、この世の中にはありえないからである。

長期間存続するような国家を作ろうとするなら、スパルタやヴェネツィアのように国内を整備し天然の要害の地を選んで国家を建て、誰もがそれを容易には制圧できないと思いこむように防備を固めるべきだと私は信じたい。だが同時に隣国に脅威を与える程にその国家を強大なものにしてはならない。

中傷をなくしてしまうなによりの方法とは、法的に告発できる余地を十分にひらいておくということである。というのは、中傷が国家を毒するのと同じくらい、告発は国家を利するところ多大であるからである。

中傷するには証人も物証もいらないから、どの市民も手当たりしだいに他の市民を槍玉にあげる事ができる。ところが弾劾となると告発が間違いのないものであることを明示する積極的な証拠や情況証拠を欠くわけにはいかないものであるから、誰でもいい加減に告発されるというような事はありえない。

ヨーマを建国したロムルスの例のように、もたらされた結果がりっぱなものなら、いつでも犯した罪は許される たんなる破壊に終始して、なんら建設的な意味のない暴力こそ非難されてしかるべきものだからである。

国家を建設する器の人物は、自分の手中にした権力を遺産として誰かに残すような事があってはいけない。それというのも人間というものは善よりは悪に傾きがちのもので先の権力者が立派な目的の為に用いていた権力を、その後継者は個人の欲望を満たすために乱用してしまうに違いないからである。

宗教を破壊したり、王国や共和国を破滅に追いこんだり、人類にとって有益でかつ誇りである美徳や、学問や、その他の技能を敵視する者は、破廉恥でのろわれるべき存在である。まさに彼らこそは、不信、横紙破り、大馬鹿者、能なし、無為怠惰、卑劣と呼ぶに値するのである。

賢い者であろうと愚かな者であろうと、また悪党であろうと聖人であろうと、善悪の判断は誰が行なっても同じである。しかしながら殆ど全部の人間が上辺の善行とか見せかけの栄誉に簡単に惑わされ自ら望んであるいは気がつかないままに、優れた者よりは喰わせ者にひきずられてしまうのである。

人民がきわめて狂暴なのをみてとったヌマは、平和的な手だてで、彼らを従順な市民の姿にひきもどそうとして、ここに宗教に注目した。彼は宗教を、社会を維持していくためには必要欠くべからざるものと考え、宗教を基礎として国家を築いたのであった。

ローマ人民という集合体として、また多くのローマ人が個人としてなしとげた数限りない仕事を検討する人は誰でも、ローマ人達が法律にふれるよりは、誓いを破る事を遥かに恐れていた事を理解するだろう。この事は彼らが人間の力よりは神の力を尊重していたからに他ならない。

ローマの歴史をよくよく吟味するなら、軍隊を指揮したり、平民を元気づけたり、善人を支持したり、悪人を恥じいらせたりするのに、どれほど宗教の力が役にたっていたかがわかるであろう。

宗教のゆきわたっている国家では、平民に武器をとらせるのは容易なわざであるのに、武勇にはぬきんでているが宗教のないような国家は、平民を宗教により教化していくことは至難のわざである。

実際一人の賢明な人物には、非常に有益なものだという事が明々自々であっても、これといってはっきりした証拠がないばかりに、他の人々に説得するには今一つ迫力に欠けているという事があるものである。従って、頭のよい人物は、このような壁をとりさるために神の力に頼る事となる。

ヌマがもたらした宗教こそローマにもたらされた幸せの第一の原因だと結論づけられよう。なぜなら宗教が優れた法律制度をローマにもたらす下地となったからでありその法律制度は国運の発展を招きこのような国運の隆盛に従ってどんな事業を行なってもうまく図に当るという事になったからである。

神への畏れのない所ではその国家は破滅の他はないだろう。さもなくば宗教のないのを一時的にでもうめ合せのできる優れた君主の高徳によって統治されるより他はないだろう。そのような君主達の生命も限りのあるものだから、彼らの能力に衰えがみえてくると、たちまち国勢も地に堕ちる事になる。

たった1人の能力にその運命をかけているような王国は、短命のはかなさを嘆かねばならない。なぜなら、その支配者の命とともにその統治の才も散っていくものだから。しかも、先帝の遺徳が、次帝のなかにふたたび花開くというようなことは、ほとんど絶無に近いのである。