美術批評家・キュレーターの黒瀬陽平さんのインタビュー記事に、
「なぜ描かないんだ?」って、ときどき聞かれますが、それは僕に才能がないからですよ(苦笑)。実際に絵を描く力と、理論を考える力とは全く違います。その両方が備わっている人は凄くラッキー。
とあって、なるほどそんな風に考えるんだと思う一方、自分も以前はそう考えてたのを思い出す。
http://www.cinra.net/column/kaiganoarika-report?page=3
私も絵は描かなくなってしまったけど、絵画や写真などを含む、作品を生み出す力と、理論を考える力は、本当に違うと言えるのか?
以前の私は、自分の作品制作の裏付けとして「非人称芸術」の理論を構築しようとしたのだけど、実のところ自分は理論の専門家ではないので、もし私の理論になんらかの妥当性があるなら、誰か「専門家」が私の不十分さを補って、きちんとした理論へと発展させてくれるだろうと、何となく思っていた。
しかしこれは図々しい話で、実際に私の「非人称芸術」理論に興味をしてしてくれるような専門家は皆無で、その理論はけっきょく自分で考えて発展させて行くしかなかったのである。そこで色々勉強を重ねて思索を深めていき、その結果として自分自身でこの理論を否定するに至ったのだった。
実は、私が「非人称芸術」の概念を提唱し始めた当時は、思想や哲学の入門書しか読んでなかった。ところが、しばらく経ってその思索を深めようとした時点で、思想や哲学の原著を読むようになり、自分の中で変化が訪れた。
しかしそもそも一般的に言えば、人工物は考えないと作ることはできない。例えば椅子を作るにも、考えないで作ったものは座りにくかったり、すぐに壊れてしまったりするだろう。そこで椅子を一つ作るにも、それなりの理論的思考が必要になる。
ところが芸術の場合はそこのところが転倒していて、人工物であるにもかかわらず、理論的な思考無しで作れるのが芸術であると、今の日本では一般に思われている。
黒瀬陽平さんは同じインタビューで
http://www.cinra.net/column/kaiganoarika-report?page=2
美術教育を受け、訓練された作家と比べると、びっくりするくらい自由
と答えているが、これが芸術以外の分野だったら、例えば何の専門教育を受けてない人が、びっくりするくらい自由な発想で、全く新しいタイプの車のエンジンを設計することはあり得ない。
そもそも「美術教育を受け、訓練された作家と比べると、びっくりするくらい自由」と言う価値観を極限化しようとしたのが私の「非人称芸術」理論だったのだが、これはどの専門家にも受け入れられず、そして自分自身で否定するに至ったのであった。
私の「非人称芸術」理論が専門家に受け入れられなかったのは、その「極限化」に興味を持たれなかったからで、逆に言えば専門家たちは極限化する手前の「美術教育を受け、訓練された作家と比べると、びっくりするくらい自由」で立ち止まり堂々巡りしているように思えてしまう。
そして私自身は前途のように「非人称芸術」を自ら否定するに至ったのだが、それは芸術というものは、他のあらゆる人工物と同様に、理論的に考えて作るものだという事に、改めて気づいたからだった。
それはレオナルド・ダ・ヴィンチや葛飾北斎を見ればわかるように、芸術とは本来、理論的に考え抜かれて作られるのである。最近、ピカソの全作品が載っていると言う画集を見たのだが、頭が良くて知識がなければ、あれだけの多彩な絵画を一人で描くことはできないだろうと、感心してしまった。
しかしそもそも古代ギリシャのソクラテスも、古代インドのブッダも、絵画や彫刻などの造形芸術は、頭を使わず手を使う仕事だとして、一段下に見ていた。だからこそ例えばレオナルド・ダ・ヴィンチは、それまでの人物画を「血の入ったズタ袋」だと非難し、解剖学や幾何学や化学などありとあらゆる分野の理論に精通しながら、芸術を成立させようとしたのである。
しかし勿論、優れた芸術は理論だけで作れるものではなく、非理論的な感覚が重要である。しかし工業製品しても、理論だけでは凡庸だったり、的を外したような製品しか作ることは出来ない。理論と理論を超えた直感が合わさることで、ライカやiPhoneなどの優れたメカが生み出されるのである。
そこで始めの問題「実際に絵を描く力と、理論を考える力とは全く違います」に戻ると、今の私としては「作品を作る力は、理論を考える力と同じ」と答えざるを得ない。それは人間がものを作る事の本質であり、芸術も例外ではあり得ないからである。
確かに「実際に絵を描く力と、理論を考える力とは全く違います」と言うイデオロギーは存在し、私もかつてそれに取り憑かれていたのだが、そのような分離が生じるのは「科学」が主流となった近代ならではの現象だと思われる。
「科学」とは日本語の文字通りにはあらゆる事物を科=カテゴリーに分けて考える学問であり、その思想が芸術を含むあらゆる分野にまで波及したのが近代という時代なのである。そして現代は、近代が終わっている。