アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

現実と物語

物語と現実の何が違うかといえば、何も違うところはなく、物語を生きる人と、物語を生きない人とがいる。物語とは筋であり、筋を生きる人と、筋を生きない人とがいる。「世界」は混沌としているからこそ筋が必要になるのだし、筋がなければ混沌に流される。

人生計画とか、野望とか希望とか夢などは、つまりは物語であり筋である。混沌から筋が構成されると生物の身体となり、生物の身体はそれ自体が一つの物語なのである。混沌から筋が構成されるとそれがその人の人生となる。人は言語を習得し言語を構成して筋を構成し、人生という物語を生きる。

ところが物語の構成力が弱いと、その物語は混沌に流される。明瞭な筋がなく混沌に流される人生は物語として意味が乏しく虚しい。そこではたと気づいたのだが、人生には物語型人生と、ゲーム型人生とがある。

なぜ世の中に物語やゲームが存在するのか?と言えば、人生に物語型人生と、ゲーム型人生とがあるからである。人生に物語を必要としない人は、日々ゲームをクリアするように人生を送るのではないだろうか?しかしこれは決めつけが大きすぎて精度が的中率が疑わしい。

話を我がこととして考えないと、抽象に陥ってしまう。私もアーティストとして、意味のある物語の中を生きる必要がある。そうでなければ、世界本来の混沌に流され、目の前の目標をその都度クリアするだけの、ゲーム型人生に終わってしまう。

アリストテレスが『詩論』で述べる「筋」と言うものか「混沌」の対義語であるならば、これは非常に重要な概念ということになる。