アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

超人と芸術

近代とはイギリスの産業革命に端を発した科学の力によって、人間が人間を超える力を身につけ、人間が人間を越えようとする営みであり、それは芸術についても同じなのである。

産業革命はイギリスで起きたが、その後世界各地に波及し、写真の発明競争はフランスが勝利した。写真術も、人間が人間を超える能力を身に付けた一環である。一面の説明としては、画家たちは写真の発明によって、画家から画家を超えた者へと進化するよう追い立てられることになった。

つまり!科学技術を手に入れた近代人とは即ち超人なのである。自明性によって科学技術を捉える現代人には分からなくなってしまっているが、技術が進歩するにつれ、人間は人間を超えた超人へと進化して行く。

もっと遡ると、原始時代において石器を持った人間は石器を持たない人間より進化している。また農業技術を取り入れた文明人は、少人数で狩猟採集生活を行う原始人より進化している。人間は技術開発によって、肉体的には人間のままで人間を超えた超人へと進化するという特性を備える。

人間は進化するときは進化するし、進化しないときは進化しないし、その点は生物の進化現象と同じである。ともかく産業革命以降は進化の時代で、技術は人間各自の意思を超えて自律的に進化する側面を持つ。

そのような技術の進歩に追い立てられ、直接的には写真術の登場とその波及に追い立てられ、芸術家は芸術家を超えた存在へと進化し、芸術は芸術を超えたものへと進化しようとしてきた。ところが、科学技術の進歩が即ち芸術の進化ではなく、そのズレから様々な錯誤が生じるのである。

つまりデュシャンの便器に代表されるレディ・メイドとは、人間を超え、芸術を超えようとする試みではあったが、結果としてはネコの視点へと退化してしまっているのであり、そこに錯誤が生じている。

映画『続・猿の惑星』に登場した、水爆ミサイルを神と崇める未来人のように、人間は実に簡単に、神でないものを神と錯誤し、芸術でないものを芸術と錯誤する。

科学技術の進歩により人間は超人へと進化し、科学技術の進歩に追い立てられて、芸術家は芸術を芸術を超えたものへと進化させようとするが、科学技術の進歩と芸術の進歩はイコールではなく、そこに様々な錯誤が生じることとなった。

赤瀬川原平さんは「超芸術トマソン」の概念を見出したが、それは実に庶民的な発想でしかなく、実際には近代芸術そのものが超芸術であったのであり、私の「非人称芸術」理論はその反動でもあったのである。

つまり私の非人称芸術は、近代的な芸術が否定した具象的なミメーシスの肯定の理論であり、それによって近代芸術の袋小路を乗り越えようとしたのである。しかし、近代芸術が陥った袋小路とは、庶民的な感覚によって陥った錯誤でしかなく、進化の本道ではなく、それを問題にすること自体が間違っている。

そもそもでいえば、農業技術の発明によって、芸術が生まれたのである。近代芸術が科学技術と共に生まれたのと同様、芸術はそもそも何と共に生まれたのかを確認して把握する必要がある。なぜなら自明性から進化は生じないのである。

自明性から進化は生じない。自明的な認識とは動物的認識であり、そこから人間的な進化は生じ得ない。自明性を打ち破ることが人間的な営みであり、人間的な進化をもたらす。

自明性の強い庶民的な感覚からは何も生じない。岡本太郎は庶民的な感覚のまま庶民的な感覚を否定し、庶民的なアバンギャルド芸術を展開しようとしたが、全ては錯誤でしかなかった。そして赤瀬川原平さんも、その著書の中で庶民を自称されていたのである。

人間にとって超人とは何か?と言えば、人間の群体動物としての側面としての超人なのである。例えばソクラテスがどのように超人なのかと言えば、農業を基盤とした奴隷制度によって、哲学が可能な環境を得ているという点において超人なのである。

文明とは群体動物としての人間の進化として捉えることができる。

人間個人の精神は、文明システムのおかげによって、生物としての人間的成熟を超えて成熟できる一方、精神的に未熟な人間も超人としての能力を発揮することができる。

文明とはハンブラビ法典を読めばわかるように、根源的に弱者救済のシステムであり、逆に言えば文明の利便性におんぶで抱っこの大量の弱者を生み出すシステムでもある。

私自身は未熟児で生まれ保育器で育ったので、文明のシステムによって救済された弱者の一人なのである。