『幼児の絵の見方』岡田清著1967年創元社刊、と言う古い本をたまたま読んだのだが、実に興味深い内容で、特に冒頭の主張は岡本太郎『今日の芸術』にそっくりなのである。
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『子供の絵の見方』(1967)冒頭の「子供の絵」を「芸術」に置き換えると、岡本太郎『今日の芸術』(1954)に非常と非常によく似ている。年代がずれているようだが、小林清と言う人は1955年に『子供の絵の伸ばし方 』と言う本を創元社から出版ている。
上記の「幼児の絵は、将来画家になるためのものでもなく、手先を器用にするためのものでもなく」と言うのは驚きだが、我々は小学校の授業で「図工」があった事に何の疑問も持たなかったのだが、振り返ると何のためにそれがあったかはよく分からない。
子供に絵を描かせる事について、少なくともこの本に書かれたように「創造力をつけ、自発性な培い、美しさに眼を開かせ、そして豊かな心性をもった、心の働く子」になると言うことは、絶対にない。いや子供のうちはそうであっても、大人になると大半はそうでなくなるのは実際の日本人を見ればよく分かる。
子供に絵を描かせる、と言うことは私にとっては意味があり、それは私が大人になってからアーティストになったからで、しかしそれ以外の人にとって子供の頃に絵を描いたことが、大人になって何の役に立ったのかは非常に疑わしい。
そもそも子供への美術教育が可能になったのは、産業革命以降の近代になり、誰でも簡単に絵が描ける画材が販売されるようになったからで、それ以前の時代は、子供に絵を描かせる教育は行われなかったのだが、だからと言ってそのように育った大人に想像力や表現力や自発性が無かったとは考えられない。
大体において、子供時代にいくら自由に伸び伸び絵を描かせようとも、少なくとも現代日本においては、そのように育った子供が大人になって美術を愛し、美術作品を買ったりすると言うことは、ほぼ皆無なのである。その意味で日本の美術教育は、英語が話せない英語教育と同様に、何の役にも立っていない。
そもそも教育とは何か?と言えば、最近の私の認識としては「優れた人を認識し、尊敬できるようになる」ことであろうと思われる。白戸三平の漫画『忍者武芸帳』では修行を積んで強くなった人ほど他人の強さを見抜くが、修行をしない素人ほど己の力を過信して強い相手に斬り殺される。
私の教育のイメージとはそう言うもので、自分が学んで優れた人になればなるほど、自分より優れた他人がより認識でいるようになり、様々に優れた他人を尊敬できるようになる。
実に「他人を尊敬する」とは簡単なことではなく、自分自身がある程度優れていなければ、他人がどれだけ優れているかが認識できないのであり、その能力を身につけるのが本来的な「教育」の意味であるように思われる。
結局のところ戦後日本の美術教育は「純粋主義」と言うイデオロギーに依っていて、つまり子供が絵を描くにあたって概念や知識や情報などを余計なものとしてシャットダウンしてしまうので実際的には「教育」にならず、「画材」と言う工業製品を使って先生が子供たちと遊ぶ以上の意味はないのである。
私もこのような絵を子供の頃に描いて先生に褒められなかった思い出がある。この著者の言うこと自体が、自身が批判する概念に囚われているし、その概念は今改めて見るとことごとく現実から遊離して間違っている。