ヴァンだ一成さんに「ヘヤーインディアン」の存在を教えてもらいましたが、検索すると下記のブログがありました。
ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」-感謝の心を育むには
驚くべき事に、ヘアーインディアンの言語には「教える」「教わる」という言葉そのものがなく、そのような意識も人々に存在しないのだそうです。
そのかわりヘアーインディアンの人は人が何かをやっているのを見よう見まねでやってみて、コピーするのだそうです。
ヘアーインディアンには「不可能視」が存在せず、つまり「他人に出来ることは、必ず自分にも出来る」と言う前提に立っている。
だから「自分にはわからないから誰かに教わる」という意識は全くなく、とにかく人真似をしながら何事もマスターしてしまう。
これは奇妙なことのようですが、しかし考えてみれば我々も「歩く」とか「しゃべる」と言った基本動作においては、子供は誰か大人に「教わる」と言うこともなく、見よう見まねでマスターしてゆきます。
そもそも人間は自分がどうやって足の筋肉を動かして歩いているのか?あるいは口や舌をどう動かして発音しているのか、人に教えられるように説明できたりはしません。
ですので人間の子供はそれを説明抜きで、見よう見まねで覚えるのですが、ヘヤーインディアンの場合はそれが大人になっても全般の動作において継続しているのですね。
これに対して「教える」「教わる」という意識の基底には「不可能視」というものがあって、つまり「分からないから教わる」「出来ないから教わる」という前提があり、そこには「教わっても分からないかもしれない」「教わっても出来ないがもしれない」という可能性も含まれているわけです。
とすると何が言えるのか?と言えば、以前の私は哲学の勉強をしようとして「哲学入門」をいろいろと読んでましたが、それは「教える」「教わる」という態度で「不可能視」が前提になっていたわけです。
ところが私はある時から方針をあらめて、入門書を読むのを一切やめて、哲学の原著翻訳を読む事にしたのです。
これはつまり哲学を「教わる」のではなく、「見よう見まねで読んでみる」という態度です。
その前提には「他の人が哲学書を読んでいるのだから、自分にも読めるはず」という新たな設定があったのです。
そうした転換をして分かったのは、哲学とは独特の「哲学的思考」であって、それは「歩く」や「しゃべる」と同じように「教える」「教わる」と言うことはできず、「見よう見まねでマスターする」しかないものだという事です。
もちろん、哲学を「教える」学校は元に存在しますし、「入門書」も昔からいろいろ販売されてますから、それでキチンと「教わる」ことができる、と言う人もいるだろうと思います。
なので、あくまでも私の場合は、と言う事に過ぎないのですが。