アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

意味と分類

写真術の発明で芸術は「前衛」へと向かうことになり、その指針の一つに「原始」があった。近代科学は文明人に原始との出会いをもたらし、忘却していた原始を想起させた。

それで日本の美術界では原始に回帰することが前衛であるように取り違えられ、私の「非人称芸術」もその流れの中に位置付けられる。あるいは近代的理性の限界を、原始に回帰することで乗り越えようとしたのである。

レヴィ=ストロース自身がそれを主張しているかは定かではないが、少なくとも私がかつて『野生の思考』を途中まで読んだ限りにおいて、近代的理性の限界は「野生の思考」によって乗り越えられると捉えたのであり、自分オリジナルの「野生の思考」として「非人称芸術」を見出したのである。

いや当時は実のところ「野生の思考」がなんなのかよくわかっていなかったのだが、現在の私は「哲学」を少しだけ理解するようになり、そのぶんの比較において「野生の思考」の何たるかを捉え直すことができる。

「分類整理はどのようなものであれ、分類整理の欠如に比べればそれ自体価値を持つ」という『野生の思考』に書かれた言葉は覚えている。つまり野蛮人の医術には科学的裏付けが可能な有効なものと、全くデタラメの無効なものとがあるが、どちらも「分類整理」という点において無秩序より価値がある。

私の「非人称芸術」も実のところ新しい「分類整理」の提示であり、それによって何らかの「効果」を生じさせようとしたのである。それは呪術的効果であり、私は文化人類学を通じて呪術に惹かれていた。

なぜなら当時の私は宗教も哲学も知らなかったのであり、その意味において未開人でしかなかった。そこで未開人の思考というものをレヴィ=ストロースが示し、私はそれを採用した。少なくとも私自身はそのように受け取ったのである。

呪術的思考とは「因果律と主題による巨大な変奏曲」であり、それが科学と異なる点は因果性についての無知ないしはその軽視ではなく、むしろ逆に呪術的思考においては因果性の追求がより激しく強固なことであり、科学の方からはせいぜいそれを行き過ぎとか急性とか呼びあるに過ぎない 野生の思考p15

フッサールが改めて提示した哲学の問題は現実への「的中性」である。しかしレヴィ=ストロースによると、人間には本来的に、現実に的中するか否かに関わらず、大変に高度な「体系化」の能力を持つ。知的能力としての体系化という点において科学と呪術は同等であり、ただ的中性のみが異なる。

そしてフッサールは、その科学者に対し「素朴だ」として批判している。科学者は「現実」の実在を素朴に前提するが故に的中性を欠いている。つまり、文明世界の知識人は自らの理論的体系を誇るのであるが、そのような体系化の能力こそが「野生の思考」であり、「的中性」という観点からそのこと自体に特別の方は認められない。だからこそ、パスカルは『パンセ』においてデカルトを痛烈に批判したのである。

人間の持つ体系化の能力と言うのは、つまり人間は言語を使用することができる。人は誰でも喋ることができて、ただ喋ることができると言うそのことだけで、その人に特権的価値を認めることはできない。パスカルデカルトに対して、フッサールが科学者に対して批判するのはそのことである。

言語は現実に対応している、という面と、言語は体系内で充足する、という二つの面が存在する。言語は現実と全く無関係ではありえないが、かと言って、言語の全てが現実と緊密に対応しているわけではない。

言語には「予測」の機能がある。言語には言語内で充足する体系が存在し、この体系によって現実のあり方を予測する。つまり言語は、現実に即した箇所を起点として、言語の体系を利用して、それ以外の現実のあり方を予測する。

なぜなら、現実の物理現象や自然現象には体系が存在し、言語にもまた体系が存在するからである。だから言語の全てを現実の全てにべったりと対応させなくとも、「予測」ということが可能になる。

いやむしろ、言語の体系自体が、自律的な体系化の能力を有している。人間が言語を使う限り、現実への予測は「自動的」に行われる。平たく言えば、人が素朴な態度でいる限り、さまざまに勝手な想像が自動的になされるのである。この自動的な想像力を対象化し、これに抗するのが学問的思考である。

分類はいかなるものでも混沌に勝る。感覚的特性のレベルでの分類であってもそれは合理秩序への一段階である。『野生の思考』p20

 

借り物にせよ、どのような関連性にも無関心であるよりましである。分類はたとえ奇妙で手前勝手なものであっても、豊富で多様な事項の全容を保全する。『野生の思考』p21

以上の引用箇所は以前読んだのを覚えているが、私はこれを二重に錯誤していた。一つは、奇妙で手前勝手な分類を創造することが「創造」だと錯誤したこと。もう一つはたとえ錯誤であっても、何がしかを分類しようとした点において「非人称芸術」に価値が認められる点である。

つまり、私の非人称芸術理論がいかに間違いで無意味であったとしても、何らかの概念によって分類を試みたこと自体には、意味や価値が認められる。少なくとも、現代の日本人アーティストの多くが、そのような分類を試みず、事物の関連に無関心なのであるり自分の間違いを認めることで、その「間違い」に意味や価値が生じる。少なくとも「間違う」ということ自体、何らかの能動性を示している。自らの間違いを「間違い」と認めることで、その「間違い」が真の意味での能動性へと転化する。

デカルトが『方法序説』で述べていた通り、森で迷った場合、方向がわからなくともとにかく歩き続けさえすれば、いつかは森を抜け道路に出ることができる。森の中で歩くのをやめれば、そこから永遠に出ることはできない。人間は原始の時代から、そのように歩き続けてきたと言える。

ところがデカルトは、けっきょく森から出ることができずに彷徨い続け、それをパスカルが批判したのである。迷いの森から抜け出すにはただ闇雲に歩くだけでは不十分で「案内人」に出逢う必要がある。この案内人は「野生の思考」以外の思考を有した賢者である。

 

ブリコルールが人間の製作品の残り物の集まり、すなわち文化の部分集合に話しかけるのに対し、エンジニアは宇宙に問いかけると言いたいところである。『野生の思考』p25

 

この箇所はフッサールの科学批判がそのまま当てはまる。確かにブリコラージュは物事のある側面を的確に捉えているがそれはエンジニアにも、ブリコルールの仕事にも、両方に当てはまる。科学者の「宇宙への問いかけ」も、その成果が常に何らかの概念化である以上「人間の製作物」に他ならず、科学を何らかの方向へと進歩させようとすれば、既成の概念を大胆な形で分解し組み合わせることになる。

むしろフッサールは、科学の方法論が、人間の製作物としての概念を反省なしに素朴に受け入れて、なおそこに新たな概念を構築することに対して、つまり科学的思考が素人工作のブリコラージュと同様な素朴さを持つことに対し、批判している。

そして素人は自分が素人であることを自覚しているのに対し、あらゆる分野の専門家は自分が素人であることを自覚しておらず、なおたちが悪いのである。

『野生の思考』を読みながら描いているが、先の私の批判に対し科学と呪術の違いはそれほど絶対的でないとしながら、次の相違点を挙げている。

 

エンジニアは通路を開いて常にその向こうに越えようとするのに、ブリコルールは好むにせよ仕方なしにせよ、その手前に止まる。『野生の思考』p25

これに対しフッサールを借りて再び反論するなら、まさに科学がある一定の地点からその向こう側を決して越えようとしない点を、現象学は批判しているのである。いずれにしろ科学と呪術は地続きであるという私の認識は『野生の思考』の影響を受けたものだった。