アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

エンジニアとブリコルール

下記は『野生の思考』の引用だが、非学問的思考がどういったものかが非常によく分かる。

結局のところ私の「非人称芸術」の問題は、その向こうに超えようとしながらも、実際にはその手前に留まった点にある。

そもそも「非人称芸術」というコンセプトは芸術の終局を示したのであり、従って、それを超えて向こう側に行くという発想があり得ないのである。

ところが大局的な視点で反省してみるならば、非人称芸術は芸術の王道ではなく脇道へと迷い込んだに過ぎず、その先が行き止まりになっていて、そのため「終局」であるように見えたに過ぎない。

いや本来は、芸術の終局の先に新しい何かが展開できるはずであったが、しかしオルテガが「あらゆる反○○は、元の○○に依存し自律できない」と批判したように、「非人称芸術」もけっきょくは芸術に依存し自律できない。

そこで「非人称芸術」とコンセプトで「芸術の終局」が示されたのであるなら、そこから先は何もない行き止まりで、しかもその道そのものが本道から外れた脇道に過ぎないのである。

 

なるほど「非人称芸術」のコンセプトは、対象物である現実に対して透明性を欠いており、結局のところ私(糸崎)という人間性の厚みが入り込んでいる。

いや、私はあらゆる事物と言葉の結びつきを解体し、透明な目でそれらを捉え直そうとしたのである。

しかし、私はそのように言葉から解放された事物のことごとくに「非人称芸術」の言葉を当てはめたのである。

そして結局、「非人称芸術」のその価値は私の主観的な好みにより決定され、私自身の「人間性の厚み」が入り込み、一切の透明性を失ったのである。

 

もし私が「非人称芸術」に対し通路を開いてその向こうに変えようとするなら、また私が現実に対し透明な態度であろうとするなら、「非人称芸術」を否定するしかない。

この場合、非人称芸術の存在を「無かったこと」にするのではなく、「非人称芸術の否定」という自分自身の足跡そのものを、自分のものとして取り込むべきである。

 

エンジニアは通路を開いて常にその向こうに越えようとするのに、ブリコルールは好むにせよ仕方なしにせよ、その手前に止まる。言いかえれば技術が概念を用いて作業を行うのに対してブリコルールは記号を用いるということになる。

自然の文化の対立の軸上において彼らの用いるこれらの両集合(概念の全体と記号の全体)にはずれがあり、その差は感知できるほど大きい。

記号と概念の対立点のうちの少なくとも一つは、概念が現実に対して全的に透明であろうとするのに対し、記号の方はこの現実の中に人間性がある厚みを持って入り込んでくることを容認し、さらにそれを要求することさえあるという所にある。(略)

科学とブリコルールはどちらも情報を狙っている。しかしブリコルールの場合その情報はいわば前もって伝えられているものであって、彼はそれを寄せ集めるのである。(略)

それにひきかえエンジニアであれ物理学者であれ科学者はリハーサルのしていない問いに対してなかなか口を開かぬ話し相手から常に今までになかった“もう一つの情報”を引き出してやろうとする。

かくして概念は仕事に使われる資材の集合を“開く”オペレーターとなるが、記号作用はその集合を“組み替える”オペレーターであって、集合を大きくもしなければ更新もせず、ただそれの変換群を獲得するだけにとどまるのである。
『野生の思考』p26

 

科学はその全体が偶然の必然の区別の上に成立した。その区別は出来事と構造の区別である。
科学がその誕生に際して科学性として要求した性質は体験に属さずあらゆる出来事の外にそれとは無関係なもののように存在する性質であった。
それが一時性質という観念の意味である。
『野生の思考』p28