アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

専門家と素人

最近、集中的に反省したおかげで、だいぶ分かってきたのだが、私には美術家として気負いがあったせいで、美術に対しかえって「不透明」な態度で接していたのだった。

これに対し後から学ぶようになった哲学に、私は何の気負いもなく、つまり「自分の哲学を打ち立てる」といった余計な思いがなく、哲学に対し自分自身が透明いられたのである。

ところが芸術に関しては、自分は芸術家なのだからと「自分の作品」を作ろうとし、自分オリジナルの芸術コンセプトを打ち立てようとし、それが「非人称芸術」となったのだが、そのおかげで「芸術」と言うものに対し、全く「不透明」に接することになってしまったのだ。

この場合の「透明性」とはレヴィ=ストロースが『野生の思考』で使っていた言葉で、ブリコルールが世界に対し不透明でその向こう側に超えて行こうとしないのに対し、エンジニアは世界に対して透明で、その向こう側を越えようとする、と言うものである。

レヴィ=ストロースのブリコラージュとエンジニアリングの対比は、未開人の思考と文明人の思考というよりも、素人と専門家の思考の違いではないだろうか?

いつの時代に関わらず、素人の思考はブリコラージュ的であり、概念の集合が氷のように固まり記号化し、それら記号の順列組み合わせを変えている。「自明性」とはまさにこのことで、素人の思考ではあらゆる事物が自明化し、その順列組み合わせだけが自明化しておらず、そこに思考の自由がある。

専門家の思考とは、ブリコラージュの素材となる「記号」を分解もしくは融解し、そのようにして概念化する。そしてフッサールは、同時代の哲学者や科学者が専門家なのにも関わらず、素人のように「記号」を分解せず自明的に用いていた事に対し批判していたのである。

そして私自身も、芸術家という専門家を気負いながら、実際には素人の思考に陥っていた。そもそも専門家とはそのように気負うものではなく、自らが透明な態度であらねばならない。でなければ、氷のように凝固した記号を溶解できない。専門家を「気負う」ということ自体、素人の思考だと言える。

私は哲学に対しては何も気負うところがなかったが、もちろん私は哲学の専門家ではない。そうではなく、私は哲学を読むことで、専門家としての思考方法を学んでいたのである。哲学的思考とは「思考の専門家」の思考であり「思考の素人」の思考と対置される。

気負ったり、身構えたり、という態度自体が素人の思考なのである。だから一般の人々は、例えば芸術や哲学といったものに対し「身構える」。その身構えは、確かに自分にも認めざるを得ない。

私は哲学に対し身構えがあった頃は、入門書ばかりを読んでいたのだが、原著を読むにあたって「分からなくていいからただ読めば良い」と人から言われて、それで身構えがなくなったのである。ただ芸術に対する身構えを解くには、今の時間までかかってしまった。