アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

安心と主張

或云(あるひという)。世の宗門の趣意を、一筋に死後の冥福を祈張ることと思ふは、大なる心得違なり。世界中宗旨の数, 如甚夥多し。其説、千緒万端なれども、概して之を云へば、現在未来に拘はらず、唯安心の地を求るなり。
#福沢諭吉 或云随筆

福沢諭吉先生が述べる如く、宗教に限らず人々が自己主張するのはただ「安心」を求めたいからである。宗教が各宗派によって異なる「主張」になるのはそのためである。宗派が互いに攻撃的になるのは、その根底に不安があるからである。

何故に人々は不安なのか?それは世界に対し不透明な態度で接していると、その手前にとどまることになり、不安が募ってくる。世界に対し透明な態度で接すれば、その向こう側に越えて行くことができ、不安は解消される。

多くの人が不安に苛まれ、それぞれの「巣」に閉じこもる。このような巣は、世間に流通する様々な「記号」を寄せ集めて作られる。私の主張も、そのような「記号」の寄せ集めに過ぎなかった。哲学や思想の「入門書」には、素材としての「記号」が記されている。これはブリコラージュの素材なのである!

哲学書が難しいのは、それ自体がエンジニアリングだからである。それに対して哲学の入門書は、ブリコラージュの素材としての「記号」を提供し、だから「分かりやすい」のである。

一般の人々は一般であるが故に専門家ではなく、だから常にブリコラージュの素材を求めている。素人がブリコラージュしたがるのはひとえに「不安」の解消のためである。