アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

近代とイデオロギー

やっと分かってきたのだが、イデオロギーとは近代の産物なのである。つまり近代かによって、それまでの価値観が全否定されると、新しいイデオロギーの構築が必然的に必要になる。

私の非人称芸術が共産主義の影響を受けていたという以前に、そもそもイデオロギーというものが近代の産物なのである。

マキャヴェッリによれば、改革とは原点に回帰することである。すなわち時間が経つと原点から逸れて世の中が乱れるのであり、改革して回帰する必要がある。これに対して近代の改革とは、原点をも含めた過去の全否定であり、そのように白紙還元した上に新たなイデオロギーを構築するのである。

即ち、近代が否定しようとした「古いもの」には二種類があることに留意しなければならない。一つは「古典」であり、もう一つは「古典からの逸脱」である。近代はこの二つを一つの「古いもの」と捉え丸ごと否定する。

近代のイデオロギーは古典を否定しながら実は、古典をさらに遡った文明以前の原始に回帰しようとする。それは『共産党宣言』でマルクスも述べているが、文明以前の原始に人間の本質を見て、日本質的な古典文明を否定して、原始に回帰しようとするのである。

過去に理由があって成立したものを、現在の理由のわからない人々が否定するのは損だとマキャヴェッリは述べているのである。

伝統的にエンジニアリングの本質は美術にあったのである。いわゆるエンジニアリングが存在しなかった産業革命以前において、エンジニアリングの本質は一つには美術に存在した。

それが産業革命以後、エンジニアリングの本質はいわゆるエンジニアリングに移行し、これに伴い美術とエンジニアリングとが無関係であるよう錯誤されるようになったのである。

レヴィ=ストロースによると、美術はエンジニアリングとブリコラージュの要素を兼ね備えているが、実際にはそれはいわゆるエンジニアリングも、多くの場合何らかの割合でブリコラージュを含んでいる。しかし現代の少なくとも日本の美術の場合、エンジニアリングの要素が殊に軽んじられ排除されている。

思えば私の場合は、美大浪人時代に通っていた予備校、長野美術専門学校の村田陽先生から、ヨーロッパ仕込みの合理的なデッサンを教わったのだが、それはつまりエンジニアリングだったのである。

若手アーティストの梅津庸一さんは、アーティストとしての基礎は美術予備校に作られると述べていて、それは極端な見方だとも思ったが、しかし今の美大は基礎を教えないわけで、自分の場合も含めて当たっていると言えるかもしれない。

お金を何となく汚いものと思うのも、アートとお金は根本のところで無関係だと思うのも、ものを正せば共産主義の影響を無自覚的に受けているのである。自らの共産主義は浄化されなければならないが、そのためには自らの共産主義を対象化し、自覚化しなければならない。