アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

美術家と美術評論家

ヘンな話ですが、私はその昔、美術評論家と呼ばれる方々が非常に怖かったのでした。例えば私は1999年に『キリンコンテンポラリー・アワード』というアートコンペに応募して受賞したのですが、その時の審査員である椹木野衣さんも非常に怖かったのです。

いや実際の椹木さんはちっとも怖い人柄ではないのですが、当時の私は椹木さん自身を怖がっていたと言うより、評論家という存在自体に恐怖を感じていたのでした。それは、これもヘンな話ですが得体の知れない存在に対する恐怖というか、私にとって美術評論家とは得体の知れない存在で、それで恐怖を感じていたのでした。

その恐怖とは、今から振り返ると美大時代の「刷り込み」が原因だったわけですが、『アマデウス』というモーツァルトを主人公とした映画を観たのです。いや『アマデウス』の主人公はモーツァルトではなく、アントニ・サリエリという同時代の作曲家で、サリエリは同じ作曲家としてモーツァルトが自分より遥かに才能のある天才作曲家であることを認め、そんなモーツァルトに強烈な嫉妬の感情を抱いたサリエリは、とうとう最後にモーツァルトを殺してしまうのです。

この映画で描かれたのは、サリエリモーツァルトの音楽に対する「理解度」で、同じ作曲家であるサリエリこそが他の誰にも増して彼の音楽を深く理解し、だからこそ誰にも増して嫉妬に狂うのです。という「刷り込み」を私は受けたのですが、つまり音楽作品の良さを最も理解できるのは、自身でも音楽を作る作曲家であって、作曲もしないでただ観客として聴いてる人の理解はどうしてもそこまで届き得ない、という理屈です。

それで私は肩書きとしては「写真家」でありますが、美大の受験は現役の時は油彩画志望で、ほんの短期間ではありますがいちおうはデッサンや油絵の勉強をしており、その分だけ他の人よりは「絵が分かる」と思っていたのです。そのように素朴に思っていたところで、あらためて「美術評論家」なる存在に遭遇したところで、ある「混乱」が生じるわけです。

つまり美術評論家とは、美術評論を生業としているけれど、美術作品を作る美術家ではないわけで、そんな人に美術の何が分かるのか?と言う素朴な疑問と共に、そのような疑問に反して実際には美術評論家は確固として存在し、美術家をはじめ世間の人びとから尊敬されて、社会的にも一定の地位にあることに対し、混乱と恐怖の感情が自然と生じてきてしまったわけです。

しかしそうした恐怖の感情は、実際に椹木野衣さんの著作をはじめ、美術評論そのものを読んでいくうちに薄らいでいくことになります。そして最近ふと気付いたのですが、これは彦坂尚嘉先生の受け売りでもありますが、そもそも美術評論は古代においては美術家が書いて来たのです。

私がネットで調べた範囲では、ポリュクレイトス(紀元前5世紀〜紀元前4世紀初期)というギリシャの彫刻家が『カノン』という理論書を記し「完全性は多数の要素の集まりから成る。彫刻は定義可能な部分から明確に構成され、すべては理想的数学的プロポーションおよびバランスの体系から他の部分に対して関係しなければならない。」などと記しています。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ポリュクレイトス

また中国・東晋時代の画家、顧愷之(こ がいし、344年?-405年?)は、『啓蒙記』『文集』を著し、人物を描くことがもっとも難しく、中でも瞳を描くこと、「点睛」の重要性を述べたとされています。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/顧ガイ之

さらにイタリアのマニエリスム期に『画家・彫刻家・建築家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリ(1511 - 1574年)も自身が画家であり建築家であったのです。またボードレール(1821−1867年)は『現代生活の画家』という著作で「モデルニテ」の理論を展開し以後の芸術家たちに多大な影響を与えたとされますが、ボードレールはいうまでもなく詩人であり芸術家であり表現者であったのです。

つまり、美術作品を評論して理論を構築して来たのはあくまで美術家であったのに、近代になって、つまり科学の時代になるとあらゆる分野が「科」に細分化され役割分担がされるようになった。それで美術家は作品を作るだけで評論や理論構築をしないようになり、それに伴い作品は作らないけど評論だけする美術評論家が現れて、そのように役割分担出されるようになったのです。

つまり、はじめの話題に戻ると美術評論家とは何者か?と言えば、近代になって美術家が評論を書かなくなった、それに伴い作品を作らず評論だけする評論家が現れた、と言うことは、美術評論家とは「作品を作らず評論だけする美術家」であると言えるのです。

私は独学ですが生物学を学んだので物事を分類学的に考えるクセがあるのですが、分類学とは進化論に基づき系統発生的に多様な生物を捉え整理する考えです。それに倣って美術評論家を系統発生的に捉えると、これは美術家の一種であると言うことができるのです。

「作品を作らない美術家」が美術評論家なのだとすれば、レディ・メイドにおけるデュシャンが「作品を作らない美術家」であったし、超芸術トマソンにおける赤瀬川原平さんも「作品を作らない美術家」であり、私もその影響から「非人称芸術」を提唱し「作品を作らない美術家」となったわけです。