アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

客観と類

常識を基盤とした思考と、常識の基盤とは何かを思考する思考とがある。

言語は自分で作ったものではなく、自分が生まれる以前から存在し、他人から教わるものである。

他人から教わらなければ、自分にとって言語は存在しないし、言語を言語として機能させることはできない。

言語は自分の口から発声し、その声を自分で聞き、また他人に聞かせることができる。また、他人が発声した言語を自分の耳で聞くことができる。

言語は自分の口から実際に発声することなく、心の中で言語を発声し、心の中で自分の言語を聞くことができる。自分が心の中で発生した言語は他人に聞かれることは絶対になく、また、他人が心の中で発声した言語を自分は絶対に聞くことはできない。

言葉とものは結びついている。現象学的に捉えれば言葉とものはともに精神現象であるが、常識的には言葉は人間の精神現象であっても、ものは精神の外部に確固として存在し、それを精神現象だとは言わない。

常識的にものは精神現象ではないと認識されるのはなぜか?つまり、精神現象と物理現象が区別されるのはなぜか?現象学においては、精神現象も物理現象も、共に精神現象に還元されるのである。すなわち常識が現象に還元される。

常識的にものが精神現象と区別されるのはなぜか?それは言葉とものでは客観性のレベルが異なっているからである。ものの客観性は人間のみならず、他の動物も巻き込んでいる。

例えば、目の前に存在するリンゴは人間も食べるし、犬も食べるし、虫も食べる可能性がある。あるいは足下の地面は人間も歩くし、犬も歩くし、虫も這うのである。いや生物だけでなく、例えばリンゴを地面に落とせばリンゴは地面に衝突して跳ねたり割れたりするのである。

動物も植物も生物も無機物も有機物も自分の身体も「もの」であり、ものとものとは様々な仕方で関係し合っている。それらもの同士の関係と、ものとしての自分の身体との関係を、人間の常識は「ものは存在する」と捉える。

人間がものを認識できるのはなぜか?人間はものとしての身体を有しており、自らが所有する身体との関係性においてものを認識する。あるいはあらゆるものとの関係性において、ものとしての自分の身体を認識する。

常識的にものは物理存在であり、言語は精神現象であり、両者は区別される。その理由は、言語は人間以外の動物には通じず、言語の作用はものには作用しないからである。

言語は、人間のものとしての身体から発せられる物理現象で、その限りにおいて他のあらゆるものとの関係性を有している。しかし言語が持つ意味としての機能は物理現象に還元することができず、それ故に言語は精神現象として、物理現象とは区別される。これが常識的判断である。

それでは人間にとってあらゆるものは「純粋存在」として存在し得るのか?あるいは、そもそもあらゆる動物にとって、あらゆるものは「純粋存在」として存在しうるのか?

ものとものとは「関係において成立している」ということは、そもそも、ものとものとの間に「純粋存在」としての関係性は成立し得ないことを示している。

水の中に石を投げ入れるのと、牛乳を投げ入れるのとでは、物理存在としての「水」のあり方が異なる。あるいは、水の中に石をゆっくり落とすのと、水に石を高速で投げ入れるのとでは、物理存在としての「水」のあり方は異なる。

この延長において、同じイモムシを食べるにも、鳥はイモムシを丸呑みにし、クモはイモムシの身体に自らの消化液を注入し、液体化したイモムシの肉を吸うのである。つまり同じイモムシではあっても、鳥にとってのイモムシと、雲にとってのイモムシは、全く異なる物理存在として存在するのである。

それでは物理学とは何か?あるいは物理学を基盤とした科学体系とは何か?と言えば、常識の普遍化の一つのあり方であり、その限りにおいての有効性と限界とを認めることができる。

あらゆるものはそれぞれの固有性を有している。それぞれに固有性を有しているものは、他のあらゆるものとそれぞれに固有の仕方で関係しあっている。それらの関係のどこに「客観性」が存在するのか?と言えば、ごく大雑把な「客観らしさ」が存在するのである。

客観性とは何かといえば、瑣末な差異に囚われることなく、ごく大雑把に掴み取られた「文脈」を「客観性」と名付け、これを学問として体系化しているのである。

ものはそれぞれに固有であり、二つとして同一のものは存在し得ないが、ものは「類」として存在する。類は、ものそれぞれの瑣末な差異に囚われることなく、ごく大雑把な文脈を掴み取ることで認識できる。

「類」とは何か?と言えば、あらゆる生物は類によって食物を認識して摂取する。例えばモンシロチョウの幼虫はアブラナ科植物に含まれる「カラシ油配糖体」という化学物質を「類」として認識しこれを食物として認識する。カエルは虫などの「動き」を「類」として認識しこれを獲物として認識して捉える。

常識的に「同じ」と認識されているあらゆるものは厳密には「類」であり、類に過ぎないものを便宜的に同一であると認識するのが常識なのである。

厳密に考察すれば「客観」なるものは成立し得ない。しかし厳密に考察しなければ客観は成立するのであり、それが客観というものの性質だと言える。すなわち客観は「同一」によってではなく「類」を基盤にして成立する。

厳密に考察して客観が存在し得ないのは、全ての事物は精神現象でしかあり得ないからである。全ての事物は精神現象だからこそ、「類」としての客観性が成立するのである。

アリストテレスは「物事の細部にとらわれず、ごく大雑把な文脈を掴み取ることが認識において重要である」と記しているが、人間にとっても、あらゆる生物にとっても、認識とはそういうものであり、「客観」とそのような認識の上に成立するのである。

世界はさまざまな「類」の集合により成り立っている。地面に転がる石ころは、二つとして同一の石ころは存在しないが「類」としての石ころは多数存在し、世界の構成要素となっている。

また、たとえ同じ金型から生じた工業製品であっても、厳密に捉えればそれら一つ一つは決して同一ではなくそれぞれに異なっている。しかし「同一の製品」と認識して差し支えないレベルの「類」としては確実に存在する。しかしその「差し支え」とは事情によって異なり、だから類はあくまで類なのである。

あらゆる事物は精神現象でしかないのに、それらのことごとくがありありと実在しているかのように思えるのは、人があらゆる事物の瑣末な固有性に囚われることなく、ごく大雑把な「類」の集合として捉えることが原因なのである。

あらゆる事物を「類」として捉えることは生物としての人間にとって死活問題であり、だからこそその存在が「ありあり」と感じられるのである。目の前のミカンをミカンであるという「類」として捉えられなければ、人間は食物を認識できず飢えて死んでしまう。その切迫感が実在感に転ずるのである。

世界は「類」の体系によって成立している。これによってあらゆる事物は言語と結びつけることが可能となる。

言語は「類」の体系として成立している。例えば「あ」という語の発音は人によって異なっているが、あらゆる人の発した「あ」の語が類として認識されて、その類でしかないものが便宜的に「同一」と定義されているのである。

言語とは何か?言語は人と人の間で話される。人が言語を話している時、他の人は言語を話さずそれを聞いている。他人が話した言語は、自分の記憶の中で物理現象を伴わずに再生できる。言語は自分の声で発することなく、心の中で物理現象を伴わずに語ることができる。

言語は言語の体系のみで完結しているのではなく、言語はあらゆる事物と結びついている。あらゆる事物は精神現象であり、それが言語というもう一つの精神現象と結びついている。

言語は人間の動物としての身体の延長であり、認識のための器官である。精神現象としての事物の在り方は、生物に固有の身体との関係によって規定される。人間は動物としての身体に加え、言語としての身体を有しており、これによって現象としての事物の在り方を規定する。

人間は集団で狩りをする動物である。すなわち人間が集団で言語を使用することによって、例えばシカを「シカ」と名付け、ウサギを「ウサギ」と名付け、イモを「イモ」と名付けることによって、人間はそれらの獲物をより効率的に捕らえることができるのである。

人間にとって認識とは本質的に共同作業である。なぜなら人間の認識は言語によってなされ、言語とは人間の共同作業の産物だからである。

人間にとって、少なくとも人工物についての認識とは、本質的にリバースエンジニアリングである。なぜなら人間によるあらゆる製造物は、その製造方法が隠されているからであり、これを暴くことが本来的な「認識」だと言えるのである。

人間によるあらゆる製造物は、その製造方法が隠蔽され、多くの場合、悪いものは良いものに擬態し、偽物は本物に擬態し、また時として良いものが悪いものに擬態し、本物が偽物に擬態している。

だからこれら製造物の外見に惑わされることなく、その製造方法に遡るリバースエンジニアリングによって、その本質を見極めることが、本質的な意味での「認識」だと言える。

ものとしての製造物だけでなく、人間それ自身も人間による製造物である。より正確に言えば、その人間の能力というものも人間の製造物であるし、その人間の人格も人間の製造物である。

つまり白土三平のマンガ『忍者武芸帳』に描かれたように、優れた剣術士はリバースエンジニアリングによって、相手にどれだけの実力があるかを認識するのである。剣術に限らず、自分が努力して能力を身につけてきた人は、リバースエンジニアリングによって他人の能力を認識することができる。