アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

認識と時間

時間とは何か?あらゆる認識は、時間を介することによって成立する。認識とは関係の認識であり、時間を介さなければ関係の認識は成立しない。 光についてその強弱だけを認識する単純な生物がいたとして、その生物は光の「強」と「弱」の関係を時間を介して認識する。

 

どんなに単純な生物であっても、その生物が何事かを認識する以上、そこに「記憶」が存在する。光の強弱だけを認識する生物であっても、「さっきまでは暗かった」という記憶との比較によって「今は明るい」ということが認識できる。

 

時間を伴わなければ音楽を認識できない。時間を伴わなければ、あらゆる音楽はその瞬間の単音としてだけ聞こえるだろう。いや単音とは「持続する単音」であって、それを認識するにはやはり時間を伴っている。音が波長であるなら、時間が排除されたなら音は成立せず、従って音は消えてしまう。

 

認識に伴って時間は発生する。空間を認識するにも、時間を伴わなければ不可能である。その意味において、時間と空間は一体のものであり区別がないと言える。

 

時間とはもう一つ、人間の寿命と関係している。人間には自分の死を認識する能力が備わっている。そして自分が死に向かって老いて行くことを認識する能力が備わっている。故に時間の概念が人間に生じる。時間とは有限であり無限であるという両面性によって認識される。

 

もし人間に寿命がなく、老いることもなければ「時間」の概念も生じ得ないのかも知れない。もし人間が不老不死であり、水や食べ物を摂らなくとも死ぬことはなく、病気や怪我もたちどころに治って死ぬことがないとすれば、その「時間」の概念が生じる余地はないかも知れない。

 

あらゆる動物は一定時間食物を摂らなければ死んでしまう。この時間制限において、動物には普遍的に「時間」と概念を持ちうると考えられるかも知れない。

 

空間認識には不可避的に時間が伴うのであり、その意味において空間と時間は一体であり、だから「時間」は存在しないと言える。ところがあらゆる動物は、一定時間以上、水や食べ物を摂らなければ死んでしまう。その時間制限は飢えや渇きとして認識され、そこに原初的な「時間」が認識される。