アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

序列と否定

○時間と記憶の問題。常識的には人間に記憶があるのは明白だが、動物に記憶はあるのか?イヌやネコのような高等動物に記憶があるとして、昆虫やアメーバに記憶はあるのか?

認識には時間が伴う。時間を伴わない認識は成立し得ない。視覚的認識は、視覚の変化の認識であって、つまり時間を伴わなければ変化そのものが認識できない。変化を認識するには、変化前と変化後の比較が必要であり、そのために不可避的に記憶も発生する。

つまり認識と時間と記憶とは一体のものであり、どのように下等な動物も何事かを認識する以上そこに記憶が存在する。

人間には過去、現在、未来へと流れる時間が認識できる。それは人間が一生を通じて常に認識し続ける存在であることの表れではないだろうか?


○「序列」について改めて考えなければならない。なぜならあらゆるものに序列があるはずなのに、近代はある意味で「序列の否定」によって成立している側面があり、この「序列の否定」ということ自体が我々にとって自明化し、対象化できていないからである。

「序列の否定」には二つの意味がある。一つは「人は皆平等でなければならない」という完全なる序列の否定。もう一つは「間違った序列の否定」である。

「完全な序列の否定」が不可能であり、その考え自体が間違いであることは、共産主義自体が間違いであることからも明らかである。とは言え、どのような序列も正しいとは限らず、否定すべき間違った序列は、確かに存在する。

我々にとっての問題は、「序列の完全否定」と「間違った序列の否定」のどちらも十分に対象化されないまま、両者が混同されている点にある。

つまり「間違った序列の否定」の根底に、「そもそも序列をつけること自体は良くないが、やむを得ない場合は仕方がない」という思いがある。根底的に「序列」を否定的なものとして捉える感覚が存在する。無自覚的なこと感覚を、まずは対象化しなければならない。

「序列」とはつまり「優劣」であり芸術の見分けの問題である。ところが我々現代人は、無自覚的に共産主義思想のある種の「断片」に囚われていて、芸術における「優劣」の正常な判断ができないでいる。