アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

イヌと言語

発売中の『子供の科学』2018年1月号は「イヌ特集」だが、その中に「イヌはオオカミのネオテニーである」と言う説が紹介されていて衝撃を受けたのだが、言われてみれば確かにその通りだと思える。



同じく『子供の科学』のイヌ特集だが、温血動物で目に「白目」がはっきり表れているのは人間、オオカミ、イヌくらいで、これらの動物は「白目」の表れ方で感情などを表現し、コミュニケーションする。

「犬」「ネオテニー」で検索してヒットしたこのページも面白い。これで分かるのはイヌにもオオカミにも本能的に「言語」が備わっており、その「本能的な言語」は人間と共通のものだ、ということである。
https://s-solidgold.com/faq/archives/685

動物にも「言語」は存在する。それは先ほどリンクした記事で明らかなように、イヌにもイヌの言語が存在する。イヌの言語は本能的に備わっているものであり、かつ子イヌは大人のイヌが使っている言語を理解できない。

そして、ネオテニーとしての性質が強い犬種は、成犬になっても「大人のイヌの言語=オオカミ語」を理解することが出来ず、時として他のイヌとコミュニケーションが取れずにトラブルを起こす。

しかし子犬にも子犬の言語が備わっていて、だから親や兄弟など他の犬とコミュニケーションできるし、人間とも通じ合うことが出来る。

「生物言語」はおそらく生物進化と共に進化し、温血動物で頂点に達し、その先にヒトの言語が生じたと考えられる。

例えば、チョウやガの「目玉模様」も、「生物言語」であると考えられるかもしれない。植物の実が赤くなるのも、鳥類などの動物に対し「食べごろである」というサインであることを考えれば、これも「生物言語」である。人間が甘いリンゴを味わうのも、その「甘さ」が生物言語となっているのである。

「言語とは何か?」を考える上で、「人間だけが言語を使用する」という前提から完全に脱却する必要がある。「人間になぜ人間に固有の言語が使えるのか?」はその前提に全生物に共通の「生物言語」が存在するからである。

「生物言語」は全生物に共通するとは言っても、生物進化と共に「生物言語」も進化したのであり、生物種によって、つまり進化の過程によって、使用する「生物言語」の範囲は異なっている。

私は実は犬と戯れたり、小さな子供と戯れたりするのが苦手なのだが、それは私の中で「生物言語」のある部分が失われてしまっていることの現れだと言えるかもしれない。

コンラート・ローレンツ先生も『ソロモンの指輪』の中で、犬を引き合いに出して、「人間は動物ガ備える多くの自然言語を失って、そのかわりに人間独自の言語を構築して認識やコミニュケーションしている」(意訳)と述べている。

またフロイト先生も『精神分析学入門』の中で、「原始時代の人間の言語は語彙が少なく単純で、それを身振り手振りや表情で補っていたであろう」と言うように述べている。

人間は人間としての言語を発達させるにつれて、生物としての人間に備わっていた「生物言語」の多くを失っていった。しかし、どんな人間も「生物言語」の全てを失ったわけではない。また「生物言語」の失い方も、「人間言語」の習得度合いに関連して、個人差がある筈である。

だいぶ以前だが、NHKテレビの科学番組で、小学生を使ったコミニュケーションの実験が行われるのを見た。初対面同士の子供を数人ずつ二つのグループに分け、一つは全員にマスクをさせ喋らないようにさせ、もう一つは全員にサングラスをさせお喋りを自由にさせる、というものであった。…

その結果は、マスクをしておしゃべり禁止のグループは、初対面同士で自己紹介も出来ず、互いの名前も知らないままでいたものの、お互い目配せなどしながら、また感情を読み取りあって、仲良くなって鬼ごっこなどして遊ぶようになった。

一方でサングラスでお互いの目を隠し、おしゃべり自由にしたグループは、お互いに自己紹介してコミュニケーションを始めたものの、どうも他人行儀でぎこちないまま、いまひとつ打ち解け合うことなく終わってしまった。

NHKテレビのこの実験の結果は、「目は口ほどに物を言う」が証明されたと言うか、われわれ人間は「言葉」共に、目配せをはじめとする「非言語的」な方法を併用しながらコミュニケーションを行なっている事が証明されたのである。

しかしこの場合の「非言語的」コミュニケーションとは、人間に特有の言語とは異なる、生物に普遍的に共通する「生物言語」の一部だと考えることができる。『子供の科学』誌の特集にあるように、犬と人間は共通して「白目」の表情でお互いにコミュニケーションする。

「白目」が見えない温血動物である例えばオウムは、全身の身振りによって感情表現するが、それが人間であるわれわれに通じると言うことは、その身振り自体が人間を含む生物に共通の「生物言語」であり、それは学習によらず本能的に備わっているのである。