アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

言葉と定義

言葉には定義がない。つまり言葉とは、西田幾多郎先生が述べた如く直接知覚である。

例えば「人間」という言葉の定義を考えても、その内容は非常に曖昧なものを含み、一義的に定義できない。生物学的に考えても、それを進化論的に見れば、ホモ・サピエンスのみを人間だと定義することはできず、猿人との境界が甚だ曖昧になる。

知覚とは言葉の直接知覚に他ならない。「人間」という言葉の定義は知らなくとも「人間」という言葉により「人間」そのものを直接知覚するのである。

結局のところ定義とは、もしくは説明とは、それが必要なのは直接知覚が成立していない場合においてである。例えば哲学の入門書を読むと、哲学についての様々な定義や説明がされているが、その説明する当人も、説明を受ける対象となる読者も、ともに「哲学」を直接知覚できないでいる。

プラトンフッサールなどの哲学書を読むと、これこそが哲学そのものであり、哲学についての説明ではないのである。つまり哲学書とは哲学の直接知覚であり、哲学の入門書は間接知覚であり、間接知覚は直接知覚に到達できない場合の代用品なのである。

直接知覚が成り立たないのは、その人が常識の範囲内に留まっているからである。つまり、自分にとっての常識の範囲外については、常識の範囲内の言葉によって説明がされなければならない。

言葉の直接知覚は、常に常識の外部に存在する。常識の範囲内に留まっている限り、あらゆる言葉は常識的な言葉によって「説明」される。

ブックオフで飲茶著『史上最強の哲学入門・東洋編』をちょっと立ち読みしたのだが、古代インド哲学のヤージュナヴァルキアについて書かれた下りを見たところ、そこには説明が書かれていたが、明らかに哲学は存在していない。

ブッダ以前の古代インドのヤージュナヴァルキアの原典は実に驚くべき哲学の真髄そのものであるが、それを説明した入門書には一片の哲学も含まれていない。これは改めて確認して、明瞭に理解できたことである。

芸術もまた然りで、芸術を理解したければ芸術についての説明や解説や定義をいくらこねくり回したところで全く無駄であり、ただ「芸術」という言葉を直接知覚する他はなく、そのためには自分が閉じこもる常識を打ち破りその外部に出る必要がある。

常識と、常識の外部とが存在する。常識には自分の常識、他人の常識、世間の常識などがあり、それぞれ微妙にズレがあるが、各自が常識の範囲内に閉じこもっている点は同じである。

例えば自分を含む世間の一般的な人々の常識と、非情なサイコパスが持つ常識とは随分異なっている。しかしどちらも自分の常識に閉じこもっている点では同じなのである。

もし犯罪者が真の意味で改心したならば、その改心とは直接知覚であり、その人は自分の常識の外部に出たと言えるのである。新約聖書でイエスを迫害していたサウロも、そのように「眼から鱗が落ちて」突然として改心し、イエスの弟子であるパウロとなったのである。

ところで私の「非人称芸術」とは何だったのか?と言えば、私は世間の常識の外部に出たつもりが、新たな「自分の常識」を構築したに過ぎず、それには普遍性がなく、従ってこれを究めたところで「芸術」到達し得ない。

何故そうなったのか?と言えば、人は自らの常識に自足して、十分に生きて行けるからである。そこには大いなる満足と幸福がある。それは主観的に検証する限り、疑い得ず確固として存在する。

これは信仰の問題であって、人は何を信仰しても生きて行くことができる。

しかし自己の信仰に対する疑いが生じた時、そこに学問が発生する。学問とは、白土三平の漫画『忍者武芸帳』のような剣豪の世界に共通するものがある。

村で一番喧嘩が強く、その強さに確かな満足を得て一生を終えることは出来るが、これこそが信仰である。しかし自分の強さを疑うならば、村の外に出て、他の強そうな奴と対決しなければならない。

村の中でいくら喧嘩が強くとも、村の外で対戦相手を求めるならば、自分より強い人間がいくらでもいることが判明する。理由の一つはいくら素質に恵まれていようとも、我流の喧嘩ではきちんとした訓練を受けた人間に勝つことはできない。

田舎者は町の道場に入門して修行を重ね、さまざまな相手と対戦するうち「本当の強さとは何か?」を知るようになる。対戦に勝ち進み強さを究めれば究める程、「真の強さ」への直接知覚へと近づいて行く。

これは哲学や芸術についても同様で、もし自己満足に飽き足らないのであれば、我流を脱してしかるべき方法論による修行をする必要がある。しかしだからと言ってこれは東大や芸大への入学を意味しない。これらの道場は平和な時代にあって形骸化しすっかり弱くなっている。

哲学を学びたいのであれば、町の道場に入門するよりも過去の偉大な哲学者が遺した哲学書を読めば良い。

哲学者の中島義道先生は「哲学書は一人で読んでも意味がなく、東大などきちんとした教育を受けた者の指導を受けなければ理解できない」としているが、この先生自体が哲学を矮小化して捉え、多数の「入門書」を書き散らかしておられることもあり、聞く耳を持つ必要はない。

ラカンのゼミナール序文に「ラカンの講義は聴くことを意図され、これを文字起こしして書物にする事に意味はなく、まして日本語に翻訳する事においておや」などと書かれているが、それはソクラテスの言葉にも言えて、プラトンが書き起こした対話篇もその意味で無意味だと言える。

古代インドのブッダの言葉は、それがブッダから発せられた後は弟子から弟子へと語り伝えられて行き、文字に記録され経典が成立したのは大分経ってからのことである。それはイエス孔子の言葉も同様で、あらゆる書き言葉は死んでいると言える。

しかしそんなことは関係ないのであり、過去の偉大な哲学を記した書物を読んで、自分自身が生きた哲学をすればいいのである。そうでなければ、どうして自分は自らの常識に騙されることなく、その外部に出ることができようか?

言語の直接知覚は総合的な知覚であるが、漠然とした知覚とは異なる。ところが、そのように考えると私の「非人称芸術」とは漠然とした知覚なのであって、総合性がない。総合性があるということは、中心性があるということであり、それが知覚としての非人称芸術には欠けている。

そもそも非人称芸術とはソシュールシニフィアン/シニフィエの機能の応用による言語の否定だったのである。それは単に、聞きかじりの不完全な知識から編み出された、奇形的な「役に立たない道具」に過ぎない。同様の「自分だけの常識」に陥ったアーティストは、現代日本ではごくありふれている。

私は「非人称芸術」を提唱しながら、誰もがするようなごくありふれたミスに陥っていたに過ぎない。実に多くのアーティストが「特別な自分」を意識しながら、みな同じように平凡なミスに陥っているのであり、私も例外ではなかったのである。