アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

欲と芸術

老子』第1章「常に無欲を以て其の妙を観、常に有欲を以て其の徼を観る」とあるが、実に「非人称芸術」とは「欲」の問題であった。つまり、このコンセプトの根底にあるのは「芸術だと思えばなんでも芸術に見える」と言う原理であり、それは「欲」の問題なのである。

「芸術だと思えば何でも芸術に見える」はある一面の真理を現している。非人称芸術の原理は、言語をシニフィアンシニフィエに「分離」し、シニフィアンが何であれシニフィエを一律に「芸術」に置き換える。すると「自分が芸術だと思ったものが芸術になる」という事が実現化するのである。

しかし、言語をシニフィアンシニフィエに分離し、シニフィアンが何であるかに関わらずシニフィエを一律に「芸術」に入れ換える手法は、現代日本のアーティストの誰もが、と言っていいほど多く行なっているのである。

そのように、一般的に行われている手法だからこそ、私はそれを極限化し普遍化しようとしたのである。しかしその場合の一般性とは「世間一般」の事でしかなく、これを極限化したところで何ら普遍には至らないのであった。私が見誤ったのはまさにそこであった。

私自身は世間体の外部へと逃れたかったのだが、そのための方法論を知らなかった…それは世間の中において巧妙に隠蔽されているのである。例えば、日本人的な世間体を痛烈に批判した哲学者の中島義道先生も、逆説的に日本人的世間体の内部におられるのである。

ともかく、あらゆる「入門書」は「世間体」によって書かれているのであり、入門書読んで何を勉強したところで世間体の中をたらい回しにされるだけである。そのような方法によってできた非人称芸術は、世間体的アート論の一つでしかなかったのである。

問題はシニフィアンシニフィエの分離ではないだろうか?つまり老子が説くように、人の欲はシニフィアンシニフィエを分離せしめ、シニフィアンシニフィエの微妙な関係を観る眼を失わせる。

欲に駆られた人間は物事の見方が粗雑になる。それはシニフィアンシニフィエが分離しているからである。シニフィアンが何であれ、シニフィエを己の欲に無理やり従わせている。そのようにして、「現実」を無視してあらゆる欲望を実現化するのである。