芸術と呪術
「言葉」は誰にとっても自分が産まれる以前からすでに存在している。例えば「芸術」という言葉もそうである。だから本来的に「芸術」という言葉が具体的にどんな意味内容を指すかは誰も知らないのであり、だからこそそれを調べて探求する必要がある。
ところで「芸術」という言葉には「ステイタスの高さ」が意味内容に含まれる。芸術は価値が高く、芸術を生み出すのは優れた人であり、また、芸術を芸術として理解できる人もまた優れているとされる。
そして、そのようにステイタスの高い「芸術」という言葉に対し、人々の「欲」が生じるのである。それは自分が生み出した作品が芸術であって欲しいという欲であり、自分が良いと思った作品が芸術であって欲しいという欲である。
実に、その「欲」に従うならば、自分が生み出した作品は芸術になり、自分が良いと思った作品も芸術になる。それは「言葉」が持つ性質によって可能となる。
ここで、老子とソクラテスの共通点に思い当たるのだが、古代アテナイの知識人たちは「自分は全てを知る者でありたい」という「欲望」によって、かえって知識を損ねているのであり、そのことをソクラテスは「無知の知」の言葉で批判したのである。
ソクラテス「無知の知」とは無欲によって実現するのであり、それは老子の「欲無くしてその妙を観る」と全く一致する。
「知りたい」という欲望と、「知者でありたい」という欲望とは異なる。あるいは真の意味での知者になりたいという欲望と、世間的に知者として認知されたいという欲望とは異なる。
「芸術」という言葉は誰にとっても自分が産まれる以前から存在する。この事実に対し老子やソクラテスが説くところの「無欲」な態度で接するならば、自分は芸術について何も知らず、これについてよく調べて知ろうとする欲望が自然と生じることになる。
ところが「芸術」という言葉に、社会的に高いステイタスを示す意味内容が含まれていることを知ると、そこに「社会的に高いステイタスを得たい」という欲望が生じ、「芸術」がその手段として捉えられることになる。
その人の志向がどこに向かうのか?によって認識の仕方も、言語の使い方も違ってくる。「言語は誰にとっても自分が産まれる前から存在する」という事実に向き合うならば、その志向は「普遍」へと向かい、老子の「無欲」、ソクラテスの「無知の知」が認識のベースとなる。
その人が「社会的ステイタス」を志向するならば、そのような「欲」に従って信仰すれば何事も実現するのである。これは実は、私も「非人称芸術」を提唱するに際して意識したのであるが「呪術」の領域なのである。
私は分が人類学を学びながら「呪術」の有用性を再認識し自らの芸術に応用しようとしたのだが、この方法論は最終的には頓挫して行き詰まる。なぜならそれは自分独自の方法論ではなく、世間的にはむしろありきたりな方法でしかなかったのである。
その意味で、この科学の時代において「呪術」は全く死んでおらず、活き活きと機能している。つまり社会というもの自体が、一面では呪術によって成立しているのである。
呪術が可能となる構造は、私が「非人称芸術」で実践したのであるが、ソシュール言語学の用語にによって説明できる。言語にはシニフィアン(記号表現)とシニフィエ(意味内容)の両側面があり、両者は不可分に結びついている。
しかしそうでありながら、言語のシニフィアンとシニフィエは分離可能なのであり、そこに「呪術」が成立可能な余地が存在する。すなわちシニフィアンが何であれ、その意味内容を「欲望」に従って何にでも「置換」することがいかようにも可能なのである。
旧約聖書に示されたように、「呪術」とは現在利益、つまり「欲望」の産物なのである。そして人間の欲望には言語のシニフィアンとシニフィエを分離させ、シニフィエを自らの欲望に従っていかようにも「置換」できるパワーを有している。そのようにして「呪術」が実現するのである。
だから「呪術による芸術の創造」という方法が存在するのである。私はこれを「非人称芸術」として理論化し実践したのであるが、これは実に誰でも使っているようなありきたりな手法でしかなかった。
ありきたりな手法と、普遍的な手法とでは、意味が異なっている。ありきたりとは「社会的にありきたり」という意味であり、普遍とは社会を超えた普遍性を意味している。
「呪術」の対義語はひとつには「対話」である。だからソクラテスは人々に「対話」を求め、弟子のプラトンによって「対話篇」が記された。これに対し、同時代のアテナイの知識人たちは「自己主張」をしたのであり、これが即ち呪術的な「呪文」なのである。
最近、若手のアーティストの何人かに接する機会があったのだが、みなさん熱心にそれぞれ自分のアートが何であるかその想いを語ってくれたのだが、それは自分の作品をアートに変える「呪文」に他ならない。
「芸術でないもの」を「芸術」に変えるのが呪術であり、そのために必要なのは「呪文」である。私の「非人称芸術」はそれを全く意識的に行ったのであるが、多くのアーティストが無自覚的にしろこの方法論を採用している。
呪術の方法論において「対話」は存在しない。呪術的な呪文は対話の拒否である。呪術を唱えることでまず自分を信じ込ませ、さらに呪文を唱えることで多くの人々を信じ込ませ、そのようにして「呪術としての芸術」が成立する。
私の「非人称芸術」もそのような呪術に他ならなかったのであるが、それについて本を出版し雑誌にも記事を書いたにもかかわらず、自分以外の信者を増やすことができず、呪術としては不完全に終わってしまった。
それは「呪術」そのものを対象化して人々に示してしまったからであり、それは学問に片足を突っ込んだ状況であり、私自身はそのように中途半端なところに陥っていたのだった。そこから私は彦坂尚嘉先生との出会いをきっかけに学問的思考への転向を試みるのだが、これがなかなか難く一朝一夕には行かない
そのようなわけで、今の私に必要なのは「対話」なのである。「言語は誰にとっても自分が産まれる前から存在する」のであれば、それに対して臨む態度は「対話」しかあり得ない。そして「全ては言語である」ならば、それに対して臨む態度は「全てとの対話」なのである。
しかし私は「非人称芸術」のコンセプトにおいて「対話」とは全く逆を行なっていたのである。それは一方的な呪術の言葉を投げ掛けることであり、「非人称芸術」とは「呪文」に他ならなかったのである。
私は「非人称芸術」の向こうに確かに「神」を観てそれにのめり込んだのだが、その「神」とは何だったのか?改めて考えると、神には「内部の神」と「外部の神」の二種類が存在すると言えるかもしれない。それは言語の特徴と関係している。
言語には「言語は誰にとっても自分が産まれる前から存在する」という特徴があり、だからこそ逆説的に「言語の意味は自分で恣意的に決定できる」という性質を有している。つまり「自分が神になりたい」と思えば神になり、「自分が神だと思ったもの」が神になるのである。
人間は老子的な「欲」によって誰でも簡単に「神」になれるし、何でも簡単に「神」に仕立てる事が出来てしまう。それはまさに老子が指摘するように、本質を無視し、微細な様を無視する乱暴でイージーな認識によって成立する。
世の中には「呪術師」と「認識者・対話者」とが存在する。認識とは対話であり、認識者とは即ち対話者でありそれは「無欲」によって実現する。対して「呪術」とは「欲望」をベースとし、実にあらゆる欲望は呪術によって実現可能なのである。
呪術には「芸術でないもの」を「芸術」に変えてしまうパワーが備わっている。偉大なる呪術のパワー!
しかし呪術によって実現した芸術は、呪術のパワーによって支えられている。このことを逆に捉えると、呪術によって実現した芸術は呪術のパワーが切れると元の「芸術ではないもの」に戻ってしまう。
また呪術には「呪術の及ぶ範囲」が限定されているという特徴があり、その範囲内でしか「芸術でないものが芸術になる」という呪術は成立しない。
そのような限定性に目を瞑れば、呪術はその欲に従って何でも実現可能だが、それが虚しいと感じるならば呪術を否定して「対話」に臨む他はない。
どの道、事実として、芸術とは全ての人が理解するものではない。だから道は二つであり、一つは「呪術」によって自分の芸術信者を増やすことであり、もう一つは「対話」を重ねることで自分が産まれる前から存在する芸術とは何か?を探求することである。そしてその二つの混在という第三の道が存在する。
新しい芸術はどのように可能なのか?一つ言えるのは「呪術」によってそれを成すのは不可能であり、そのことは私も「非人称芸術」によって実証している。それは一つには「対話」によって可能となる。だから「他者の言葉」を無視して一律的な「呪文」を一方的に押し付けてはならない。
詐欺師は先ず誰よりも「自分」を騙す。詐欺師は先ず自分が自分に騙されながら自分にウットリする。その状況から脱しない限り呪術としての芸術ではない真の芸術を生み出すことはできない。