かなり酷い内容の記事ですが、まず読書を「知識を詰め込むため」という風に一律に規定するのがおかしい訳です。
例えば小説ですけれども、小説というとは一般的に知識を詰め込むために読むものなのでしょうか?
また、哲学のようないわゆる知的な本にしても「知識を詰め込むため」に読むというのは完全に間違っています。
知的な本というものは、それはある種の小説も含めてですが「他人の頭」をインストールして「自分の頭」をバージョンアップするために読むのだと私は思うのです。
いくらハードディスクにデータを溜め込んでも、OSをバージョンアップしなければパソコンは速くならない…いや例えが単純すぎましたが、そもそも「自分の頭で考える」とはどういうことか?を考えなければなりません。
まず「自分の頭」とは産まれながらに出来上がっているものではなく、まず言葉を学びながら、そして親や先生をはじめとする他人の考えを様々に学びながら、徐々に「自分の頭」を形成してゆくのです。
ところがある一定程度に「自分の頭」が出来上がると、自分が赤ん坊の頃から学んできた過程を全て忘れて、それがもう産まれながらの「自分の頭」だと勘違いしてしまう。
そうなるともう、それ以上の「他人の考え」はことごとく「自分の頭」からシャットダウンしてしまい、「成長」と言うものがなくなってしまうわけです。
つまり、本を読むことを「知識を増やすこと」だけだと考えている人は、「自分の頭」をそのままにして知識だけを増やしている。
これではいくら本を読んでも本当の意味で頭は良くならなず、「自分の頭」のバージョンアップが出来ないのです。
私がフッサールやラカンやフロイトを読むのは、それによって知識を増やそうとするのではなく(元来物覚えが悪いのでその意味での知識は増えないのですが)、自分の頭をバージョンアップするためなのです。
とは言え、そのような哲学や思想者は「他人の頭」そのものですから、「自分の頭」にインストールするのはなかなか難しい。
しかし難しくてインストールしにくい「他人の頭」ほど、「自分の頭」にインストールのしがいがあり、それだけ大幅なバージョンアップが可能になるのです。
この、外山滋比古さんは、おそらく高校生くらいで「自分の頭」が出来上がってしまい、それを頑なにバージョンアップしないまま、ひたすら本を読んで「知識」を溜め込んで、30代を終えたのではないかと思います。
まぁその方が、売れっ子の評論家にはなりやすいのだろうとは思います、分かりやすいでしょうから…
「自分の頭」がバージョンアップしてゆくと、一般的な人々からかけ離れていって分かりにくくなりますが、「自分の頭」をそのままにしながら知識を増やすタイプの人は一般的にその「頭の良さ」を示しやすいのですね。