アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

芸大と学歴

ayaka-tanamura.net

誰かがシェアしていた記事でしたが、元の投稿が誰だかわからなくなって再検索して探し出しました。

最初に見たときは、大手メディアのインタビュー記事かと思ったのですが、改めて確認したら藝大生が本人のブログに書いた記事でした。

なのであまりキツイことを書くのもなんだと思ったのですが、これに気づいたのは自分の投稿をほぼ書き終えた後だったので(笑)そのまま掲載することにします。

まぁ、藝大生や美大生がメンヘラなのは「メンヘラ」という言葉がまだなかった私の美大時代からそうでしたが、それよりも藝大生も藝大も「最近、藝大生のレベルが落ちた」と世間でよう言われるようになったことを、問題にした方がいいのではないかと思うのです。

これは私が思ってるというよりも、本当にさまざまなところから「藝大生のレベルが落ちた」という話を聞くようになったのです。

その原因を私なりに考えてみると、みなさん「学歴」というものを大袈裟に捉え過ぎではないかと思うのです。

それは藝大、美大に限らず、東大を頂点とする日本の学歴社会全体の問題ではないかと思います。

記事中にも下記の記述がありますが、

>私は東京藝術大学 美術学部 絵画科 油画専攻を現役で合格しました。
>私の年は倍率22倍、現役合格の倍率は100倍とも言われていました。
>1000人もの屍の山の上を歩く日々も、来月の卒業式で終わりを迎えようとしています。

こんなことを自慢げに書くから精神を病むのだし、作品も良くならないのではないかと思います。

いやそれは、逆に「藝大に入れなかった人」にも同じことが言えて、実は私自身も学生時代は「藝大に入れなかった」という失意から、今から思うと自分で自分の才能を潰していたのでした。

考えみれば、日本において学歴は受験によって決まりますが、受験の内容は現実の複雑さに比べるとかなり単純化されています。

たとえば「芸術とは何か?」とか「どれが優れた作品なのか?」は非常に複雑で難しい問題ですが、藝大美大受験の際はそのような問題が「棚上げ」されたまま、取り敢えずデッサンが上手い人順に合格させるのです。

しかしデッサンが上手い人が必ずしも良い作品が作れるとは限らず、私も「デッサンだけがやたら上手くて、自分の作品が全く描けない人」の例をいくつも見ているのです。

それは美大以外の一般の大学も同じで、受験というのは人間のさまざまな能力のうちごく一部を切り取って、その優劣を判断しているに過ぎないと思うのです。

しかし、実際的にその人が本当に優秀かどうかは「優秀な人間とは何か?」という問いも含めて大変に複雑で難しいはずです。

いや、その人が優秀かどうかは、その人が現実に対しどう対応しているのかを見れば分かるのですが、現実というのは複雑で、それに対応する人の能力も複雑で要素が多くなりますから、「受験」という一律なシステムで判断する事は出来ないと思うのです。

すると受験や学歴に何の意味があるのか?と言えば、それはあくまで便宜的なものに過ぎないと思います。

たとえば最近、Facebookのグループに加入しようとすると、簡単な質問をされるようになりましたが、それはスパムや冷やかしを防止するため便宜的に設けられたもので、受験も本質的にはそれと変わらないのではないかと思うのです。

受験によって便宜的に選別をしなければ、誰でも入学できることになってキリがなくなりますが、受験にそれ以上の意味があるのか?と問われると、実際的には難しいものがあります。

私が学歴にこだわらなくなったのは、一つには美術と写真のコンペに応募して、それぞれ賞を貰ったことがキッカケです。

アートのコンペというのは、学歴とは違った基準で審査されますから、学歴とは全く関係なしに評価されるのです。

それと同時に、いくらコンペで賞を貰ったところで、その評価はその時限りのもので、なんら普遍性がありません。

わかりやすく言えば、賞をもらうと授賞式では皆さんに褒められてチヤホヤされますが、それは本当に、その場限りのことに過ぎないのです。

それ以来、私は「学歴」も「受賞歴」も大袈裟に考えることなく、いや無いよりはあった方励みになるとは思いますが、その程度の「便宜的な基準」の一つに過ぎないと思うようになったのです。

それと、哲学を翻訳本で読むようになったことも大きいと思うのですが、以前の私は「どうせ自分は美大出だから」と、哲学は誰にでもわかりやすく書かれた「入門書」で読んでいたのです。

ところが彦坂尚嘉先生に勧められて、フッサールなどの難解と言われる哲学の翻訳本を読んでみると、初めはチンプンカンプンでしたが、何度かチャレンジするうちに徐々に読めるようになってきたのです。

この場合の「読める」とは、「フッサールの頭」が「自分の頭」に少しはインストールされで、その分だけ「自分の頭」がバージョンアップされた、ということ意味します。

そのようにしてバージョンアップされた頭で、かつて自分が読んだ「入門書」を再読してみると、その著者は中島義道先生にしろ、内田樹先生にしろ、橋爪大三郎先生にしろ、みなさん「東大卒」の学歴を持つ先生方ではありますが、結局はそのような「学歴」に縛られるあまり、本当に「哲学」を理解されているのかどうか?が大半に疑わしく思えるようになってしまったのです。

これについて詳しく書くとさらに長くなるので別の機会に譲りますが、ともかく「学歴」と「哲学の理解」は無関係だというのが最近の私の認識です。

私が哲学を読むのは美術家であるからで、写真を含む美術とはまず「認識」の問題であるし、作品を制作することも全人格的な行いであるので、そのためにどうしても哲学を読む必要が出てきてしまうのです。

要するに、芸術にしろ哲学にしろ、その人が何を「必要」としているかが重要なのであり、だから藝大にしろ東大にしろ、学歴を取得して満足してしまうと、その先の「必要」というものが無くなってしまいます。

最後に記事の下記の箇所ですが、

>(2)病んでる時ほど良い絵が描けてしまうから
>私がうつ病だった時、とある教授が私に言いました。
>「棚村は病んでる方がいい絵描くよなぁ」と。

これは世間によくある芸術に対する誤解の一つで、こうした発言自体、教授自身が芸術とは何か?をよく分かっていない証拠だし、そのような「指導」で学生を精神的に追い詰めるたとしたら、教授としては問題ではないかと思います。

いや、病的な精神から良い絵が生まれることがあるのも事実ですが、それはほんの一時のことでしかなく、そのままでは急速に劣化して崩壊します。

なぜなら「人間精神の負の要素」と向き合って制作することと、精神を病むこととは似ているようで違うからです。